邂逅の中(3)

文字数 4,412文字

 イカルが突然、発した叫び声に、周囲にいた人々が一斉にタカシの顔を見た。あっ、という驚きの声が全方位から発せられたように聞こえた。
 間違いない。血と汗と砂ぼこりにまみれてほぼ肌を直接見ることはできないが、この目、この顔の輪郭、どことなく孤高を好みそうな雰囲気、そのどれもが合致した。本当に、現実に、存在していたんだ・・・。
 ツグミはイカルの横合いからチラリとイカルが手にしている紙片を盗み見た。そこにはアトリの喜びの声が聞こえてきそうな筆跡で大きく、
“イカル、見つけたぞ!この人が選ばれし方様だ!”と書かれていた。
 胸の内に満ちあふれんばかりの喜びを、どう表現したらよいのか分からないままに、ただ目を見開いて、口を開けて、満面に喜色を表したまま固まったイカルの姿を前にタカシはとまどった。彼にすれば警戒されることは覚悟していたが、こんな表情を向けられることになるだろうとは想像もしていなかった。ただつい最近見たアトリの表情をふと思い出した。あの少年も俺を見てこんな表情をしていたな。
 彼は周囲の人々の表情を見渡した。どの顔も驚愕の表情を貼り付けている。驚いていいのか喜んでいいのか分からず微妙な表情をしている少年もいる。目を潤ませている少年もいる。先ほど自分につかみかかった少年を倒した少女は、先ほどまで終始不機嫌な顔つきをしていたが、今は目を見開いたままこちらを凝視している。
「あなたはこの世界で有名人みたいだわ。どうやら歓迎されているようで良かったじゃない」
 横目でタカシを眺めながら、ナミが言った。
「歓迎されてるのは良いけど、自分の知らない内に名が売れているのは、少しとまどうね」
 二人の会話を聞いてイカルはふと我に返った。
「あな、あな、あな」
「穴?」
 見た目の幼さとは裏腹に、先ほどまでは落ち着いた雰囲気を存分に醸し出していた目の前の少年が、突如豹変してうろたえ出していた。
「あな、あなたは、選ばれし方なんですね?お方様の唯一お選びになられた、選ばれし方様なんですよね?」
「ああ、どうやらそうらしい」
 その言葉に、落ち着きはじめていた周囲の驚きに満ちた雰囲気が、再び盛り上がった。
 イカルも再び驚きを実感した、と同時にあまりのことに本当に間違いなくそうなのか確信を得ようとタカシの顔を繁々と眺めた。
 その様子をイカルの後方で眺めていたツグミは、思いついたように救急用品バックから綿布を取り出し、装備していた水筒から水を掛けると素早く駆け寄ってタカシの目の前で正対した。
「失礼、します」
 その一連の行動があまりにためらいなく自然だったので、タカシは抵抗する機を逸した。
 ツグミは濡れた綿布でタカシの顔の汚れを拭き取った。イカルは、ツグミが自分以外の誰かの世話を焼く姿を見たことがなかった。少なくとも社会に出てからのここ三年の間は。だから更なる驚きの表情で、その様子を眺めていた。
 タカシは、片手で自分のアゴ部分を支え、他方の手で優しく顔を拭いてくれているこの少女に、次第に安心感を覚えた。このコも目の前の少年と同じように初めて会った気がしない。このコには安心して自分の身体を任せていい気がする。なるべく拭きやすいように彼は中腰になって目を閉じていた。すると突然、額に激痛が走った。
 思わず彼は苦悶の声を上げた。ツグミが無造作に額の傷口に触れたために治まり掛けていた痛みがぶり返していた。
「す、す、すいません。だ、大丈夫、ですか」
 ツグミが心配そうな声で訊いた。いくら痛くても、もんどりうって痛さを全身で表現したくても、女の子にこんな声で訊かれて、大丈夫じゃねえよ、痛てえよ、ふざけんなよ、なんて言える人がいるのだろうか。少なくとも俺は違う、そんなことを思いながらタカシは座り込んで、ぐっと痛みにただ耐えた。
「アビ!至急、救急道具を持ってここまで来い」
 イカルが自分の班の衛生兵に向かってあわてた口調で言った。その声に少し離れた所で待機していた女性兵士が小走りに近寄ってきた。
 ツグミが拭いて血や砂汚れが落とされたために、その素顔を見ることができるようになっていた。タカシが間違いなく選ばれし方であるとイカルは確信していた。極力丁重に対応しないと。
「ツグミ、アビと交代しろ。アビ、この方の傷を診てくれ」
 アビと呼ばれた少女がツグミと並んで片膝をついた。
「アビ、いい。この方の、面倒は、私が看る」
 ツグミはアビより一年先輩だった。だからアビはためらった。ツグミは普段、イカル以外の人とあまり話さないし、笑顔を見せることもほとんどない。話もしないから直接的な関わりもほとんどなく、印象として気難しい人と後輩からは思われ、敬遠されていた。
「お前は不器用なんだからでしゃばるな。さっさとアビと交代しろ」
 ツグミは自分が不器用だとは思っていなかった。だからイカルの強い口調に対して何か言い返したかったが、ぐっとこらえて、ただムスッとした顔をしながら黙って立ち上がった。
 イカルは仕事を離れると、ツグミや他の人たちの言うことに対してあまり拘泥することはない。その一方、それが仕事に関わることになると途端に頑固になる。ここで反論したところで聞く耳を持ってくれないことは経験上、ツグミにはよく分かっていた。
 入れ替わりにアビがタカシの正面にヒザをついて額の傷を診はじめた。タカシは内心ホッとした。
「モズ隊長へ、イカル班より緊急連絡。B3区画地上連絡通路入り口において、選ばれし方様を保護いたしました。お方様に選ばれた方です。負傷されておられますので、これから応急処置の後、移動します」
 イカルが手首の通信機器に向かって話し掛けていた。返事は左耳に着けたイヤホンに流れているようだ。時々、はいっ、とか、了解っ、とか答えるイカルの声だけが聞こえてくる。
「イスカ、全班員を連れて俺の所まで来てくれ」
「エナガ、ノスリの状態はどうだ?緊急事態が発生した。ノスリは班員にまかせてこっちに戻って来てくれ」
「こちらは治安部隊モズ分隊所属イカル班。B3区画地上連絡通路入り口に救急車両出動を要請する。負傷者一名、至急出動願います」
「全員に告ぐ。第一種警戒態勢を発令する。要人警護の隊形で待機」
 周囲があわただしく動きはじめた。空気に緊張感がただよっていた。そんな張りつめ出した空気の中で、タカシはただアビの治療を黙って受けていた。
 アビは傷口に付着したゴミを綿棒とピンセットのような小さな器具を使ってきれいに取り除いた後、洗浄してから手の平サイズの小さな器具を傷口のやや上に押しあてた。そしてそのまま傷口の下まで押し下げた。
 タカシは少し痛みを感じて一瞬目を閉じたが再び目を開けた時にはすっかり痛みがなくなっていた。傷口に触ってみた。血が止まっていた。そればかりか傷口があった箇所に皮膚らしき感触があった。傷の名残で多少の凹凸はあるものの、生々しい傷跡の感触は消えていた。
「すごい、傷が治ってる。どうやったんだい?」
 そう訊かれたアビは、けげんな顔つきをちらりと見せた。どうやらこの世界では当たり前の傷治療法のようだ。
「これで皮膚を再生させただけですよ。表面をおおっているだけの応急処置ですから、傷跡が残らないように病院できちんと治療してもらう必要があります」
 優し気な表情、優し気な声、隊服を着てはいるが、女性らしい親しみやすさを感じた。
「ありがとう。助かった」
 この世界に来てからナミといい先ほど顔を拭いてくれた女の子といい仏頂面をした女性とばかり接してきたので久しぶりに和んだ気分になったタカシだった。彼はかたわらに立っているナミの顔をちらりと見た。
「どうした?」
「いや別に」
 彼は目を逸らした。その拍子にふと先だって会ったルイス・バーネットという男の存在を思い出した。あいつは俺の守護霊だって言っていた。そして俺を自分の身体の中に戻そうとしていた。これはナミに知らせておかないと。向こうはナミのことを知っているみたいだし、知らないとナミも何かととまどうかも知れない。
 彼は、再度ナミの顔を見上げて声を掛けようとした。その言葉がのどから出る前にすぐ横から声がした。見上げるとイカルがそこに立っていた。
「選ばれし方様、傷の具合はいかがですか?もうすぐ救急車両が到着いたします。もう少々お待ちいただけますでしょうか」
 イカルは一片の隙もなく直立していた。生真面目な性格がその姿勢からヒシヒシと伝わってくるような気がした。 
「このコはすごいね。傷の治療では俺が知っているどんな医者より腕がいいよ」
「アビは、我が班の衛生兵であります。そう言っていただくと班長として私も光栄であります」
「それから救急車両なんて必要ないよ。お蔭で傷もすっかり治ったから」
 タカシの頭の中に人々の好奇の目にさらされる救急車のイメージが浮かんでいた。こんな傷くらいで救急車に乗るなんてちょっと気恥ずかしい気がしていた。
「しかし・・・」
「そんな大ごとにしないでくれないか。大丈夫、もう立てるし歩けるから」
「分かりました・・・。正直に申し上げますと、そう言っていただいて助かりました。今、この都市のいたる所でけが人が出ており、救急車両がみんな出払っていたので、かなり時間が掛かりそうだったんです」
 そう言ってイカルは首を巡らせてシティに視線を移した。タカシも立ち上がりながらその方向を見た。
 巨大すぎて、はたしてそれをただの岩と呼んでいいのか分からないほどの巨大な鉱物の塊と、かつては整然と配置されていたのだろうビル群や家々の痕跡がそこにはあった。きっとそこには、人々のうめき声や泣き声や叫び声が限りなく湧き起こっているだろうことが想像できた。タカシは背筋に寒気を感じた。
“リサの自我が壊れてる”
 崩壊を止めるために自分はここにいる。すべてを受け止めるためにここにいる。でも、こんな惨状を受け止めることがはたして自分に可能なのだろうか。
「いたる所で被害が出ています。この地下都市に初めてケガレも現れました。おそらくこの現状は、この都市存続の最大かつ最悪な危機だと思われます。そんな時にあなたが姿を現された。きっとあなたはお方様が我々にお与えくださった唯一の希望です。どうか我々をお助けください」
 タカシは今、この瞬間のイカルと同じように、希望の光を見出した者の目をしていたアトリの最期を思い出した。この少年たちは俺に何をさせようとしているのだろうか?俺はいったい何をすればいいんだ。いや、俺のすることはただ一つだけだ。それですべてうまくいくはずなんだ。
「俺はリサに会いに来た。リサに会わせてほしい。リサの所に案内してくれ。話はすべてそれからだ」
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