深層の中(16)

文字数 5,081文字

 凄まじい閃光と破裂音が辺りを包み込んだ。一瞬、断末魔の叫びのような音も聞こえた。このC地区に放出されたケガレが一瞬にして消滅した。そして宙にあった巨大な黒い玉がそのまま落下してドスンと地を震わせながらエスカレーター通路の入り口にはまって穴をふさいだ。
 その破裂音にナミは目を覚ました。瞬時に辺りを見回して状況を把握した。自分たちは落下している。凪瀬タカシが自分をかばうように抱えながら落下している。地上が目前に迫った時、わずかに残っていた霊力を振り絞ってナミは少しだけ浮遊した。何とか二人とも地面に身体を打ちつけることはさけられた。二人とも足から地面に着地して、自らの体重に逆らわずにそのままゆっくりと横たわった。
「ありがとう、ナミ。あのまま落ちていたら全身複雑骨折どころじゃ済まなかった」
 タカシは上体を起こしながら、まだ横たわったままのナミの姿に視線を向けた。どんな状況でもあれだけはっきりと見えていたその姿が、何やらぼやけている気がした。服を含めて何かとても色合いが薄くなったような、身体の密度が下がっているように見えてしょうがなかった。
「心配しないで。契約がある限り、私があなたを守るわ」
 ナミは仰向いた姿勢のまま目も開かずに、ただ口だけ動かして言った。何かその声も細くなった気がする。
「ナミ、大丈夫か。身体が・・・」
「大丈夫よ。ただ少し力を使いすぎてしまったようだわ。回復するまでに少し時間が掛かりそう・・・」
 ナミは正直言って困っていた。霊力を、自らの自然治癒力任せで回復するためにはかなりの時間が必要だった。その間、無防備この上ない状態になる。すぐにでも凪瀬タカシの手助けをしたかったが、この状態では望むべくもない。自分が所属するグループの本部に戻れば、時間を短縮して霊力の補充ができる。でも今、彼女に本部まで戻る余力はなかった。アナに連絡して迎えにきてもらうか、とも考えたが、そんなことをしたら極力本部から出たがらないアナは、大幅にポイント査定に影響を与えそうだし、他の誰かを寄越すかもしれない。もしかしたらまたマスターに白羽の矢を立てるかもしれない。そんなこと、とは思えない。アナならやりかねない。それが最良だと判断したら彼女に躊躇なんて欠片もないのだ。
「すぐに治療をしてもらえるように手配しよう」
「無駄よ。あたしは霊体よ。この世界に治療できる人なんていないわ」
「そんな・・・、本当に大丈夫なのか」
 ナミがゆっくりと目を開いて、眼球だけを動かしてタカシへと視線を向けた。
「心配ないわ。ただちょっと時間が必要なだけ。だから少し待っててくれないかしら。あなただけ行かせるわけにもいかないから」
 後方でいくつもの足音が聞こえた。振り返らなくても分かる、ぶ厚い靴底の奏でる兵士たちの足音だ。
「選ばれし方様」
 これも振り返らなくても分かるノスリの声だった。
「大丈夫ですか。申し訳ないのですが、すぐに一緒に移動していただけませんか」
 タカシは首を回して振り返った。ごく真面目な顔つきをしているノスリがいた。その周りにエナガやイスカや他数人の兵士もいる。タカシはもう一度、ナミの姿に視線を戻した。ナミがいなくても大丈夫だろうか、という不安がないでもなかったが、そんな甘えた思いを彼は瞬時に振り払った。迷っている時間はない。事態は刻一刻と動いている。リサがいつどうなるか分からない。立ち止まることはできない。
「ノスリ、誰かにナミを病院に連れて行かせてくれないか。このまま残していくわけにいかない」
 タカシは立ち上がりノスリと正対して言った。
「分かりました」
 ノスリはそう言うと、振り返り少し離れた場所にツグミと寄り添って立っていたアビに向けて声を掛けた。
「アビ、ツグミとそちらの方を救急車両を使って中央病院に連れて行ってくれ」
「了解です」
 タカシが周囲を見渡すまでもなく、兵士たちの集まっているすぐ横に三台の救急車両が停止していた。ここに来るまでにかき集めてきたのだろう。これで労せずに白い塔のもとまで行ける、そう思いつつ彼はナミに視線を移した。ナミはジッと目を閉じたまま動かなかった。先ほどの話は当然聞こえていたはずだが、今更何を言ったところで自分を置いてタカシがリサのもとに急行していくだろうことを予想し、それを仕方のないことだとあきらめているのか、何かを言う気配もなく、ただ横たわっていた。
「あなたに任せて大丈夫なの?」
 足を引きずりながらノスリの横を通りすぎる際にツグミが声を掛けた。
「お前が、イカルに会いたくてしょうがないって顔してるから、病院に直行させてやろうと思ったんだよ」
 ツグミは全身の傷を痛がってはいないようだったが、それでも満身創痍であることは見ればすぐに分かった。今までもそうだったが、これからは更に命懸けになるだろう。ここにいる何人が生き残れるか分からない、だからツグミを一緒には連れていけない、ノスリは少しだけ息苦しさを感じた。
 ツグミは少し微笑みをノスリに向けて、そのままナミのもとまで歩を進めた。アビは二人の方にベテラン救急隊員が運転する救急車両を誘導していた。
「ナミさん、聞こえますか。これから病院にお連れします。すぐに治療しますから安心してください」
 ツグミは横たわったナミの横に片膝をつきながら言った。応えはなかった。背後でアビの車両誘導の声が聞こえた。ツグミが背後を振り返って車両の接近を確認しようとした時、声が聞こえた。
「ほっといて」
 ツグミは再びナミに視線を向けた。目を閉じたまま横たわっていた。少し待つと口だけが開いて再び声が聞こえた。
「私は今、著しく霊力が欠けた状態なの。これはこの世界の誰にも治せないわ。ただ時間を掛けて回復を待つしかないの。だからそっとしておいて」
「でもこんなところに一人で置いていくわけにはいかないわ」ツグミは努めて優しい声で言った。
「私は今、霊力が足りないから、身体が透けて見えるでしょう。あなた、自分の身体の中をひとに見られて、いい気持ちがする?」
 ツグミは一瞬迷ったが、思い直して微笑みを静かにナミに向けながら、右手をそっと差し出して、その手に触れた。
「分かったわ。そっとしておくわね」
 ツグミは手を引いて、アビを制止するために立ち上がりながら振り返った。
「ツグミ」
 名前を呼ばれて再び振り返った。ナミの視線が自分に向けられていた。
「私は契約によって凪瀬タカシを守らなければならないの。でも今、それができない。だからツグミ、守ってあげて、凪瀬タカシを、山崎リサを。あなたならきっとできるわ。だから・・・お願い」
 ツグミにどんな力が、どんな能力があるのか、はっきりとは分からない。でもきっとこのコなら凪瀬タカシや山崎リサの力になってくれる、ただの勘ではあったが、そうナミは思っていた。ツグミは再び微笑んだ。
「ナミさん、今まで助けてくれてありがとう。すべてうまくいったら迎えにくるから、それまで大人しく待っててね」
 ツグミはナミに背を向けて、周囲に声を掛けながら歩を進めていった。アビも救急車両もナミから遠ざかるべく来た道を戻っていった。
「ナミ様はここに残るわ。それからあたしも一緒に行くから」
 救急車両に乗り込みつつ打ち合わせをしているタカシやノスリ他、班長たちの側にたどり着くとツグミが言った。
「いや、ナミをこんな所に置いておくことはできない」
「ツグミ、お前はナミ様と一緒に病院行きだ。さっさと行くんだ」
 口々にそう言うタカシとノスリに向かってツグミは抑えた口調で声を発した。
「ナミ様は女の子の事情でここに残るの。そっとしておいてあげて」
 ノスリは訳が分からないままに、けげんな表情をするしかなかった。タカシは思い当たる節を色々脳内検索してみたが思い当たらず、かといって事細かに訊くわけにもいかず、けっきょく二人はそのまま話題を他に移すしかなかった。
「ツグミだけでも病院に行けよ。身体中傷だらけじゃないか。それとも俺に任せたんじゃ不安なのか」
 ノスリは気を取り直して言った。
「不安でしかないわよ。また誰かが死んでしまうかもしれない、って思ったら不安でしょうがないわよ。あたしもこんな状態だけど、まだできることがあるかもしれない。だから連れて行って。お願い」
 凜と立つツグミの姿をノスリは眺めた。こいつはイカルが倒れてから本当に人が変わってしまった。まるで別人になったみたいだ。ノスリはツグミのあまりの変貌ぶりに少し寂しさを感じていた。
「ツグミ、イカルに会いに行かなくてもいいのか?」
「イカルとあたしはいつもつながっているの。いつも側にイカルはいてくれるの。イカルはいつもあたしに話し掛けてくれるの。だから大丈夫。イカルとあたしはいつも一緒だから」
 ノスリは、こいつはまた訳の分からないことを、とは思ったもののそれ以上、訊かなかった。今ここにいるツグミが、ほんの少し幸せそうだったから。
 タカシは、救急車両に乗り込む前に、ナミに声を掛けようかと思った。しかしやめた。きっとナミには俺が言いたいことが分かっているだろうし、ナミが何を言いたいのかも少し分かる気がする。
 タカシはただナミに視線だけ送って、そのまま車両に乗り込んだ。
 三台の救急車両に、その場にいた兵士全員が分乗した。
 ノスリたちが深層牢獄からB地区へと脱出した際、エレベーター入り口にはすでにB地区に残してきたイスカ班、トビ班、エナガ班の班員が救急車両と救急隊員とともに待っていた。ノスリは一台の救急車両に負傷者を預けて、残りの兵士たちを伴って救急車両に乗り込み、ケガレを引き連れて脱出してくることが予想されるタカシたちを援護するべくC地区へと急行したのだった。
 やがて、イカル班、トビ班、エナガ班、イスカ班の班員たちとノスリの計三十二名の兵士たちを乗せて、車両は次々に白い塔を目指して発進していった。ナミだけをその場に残して。
 急に辺りが静かになった。薄目を開けてナミは周囲をうかがった。本当に誰もいなくなったようだ。自分から言い出したもののこんな状態で一人になってしまうとやはり心細さを感じざるを得なかった。彼女はゆっくりと左手を上げてイヤリングに触れた。
「七十三番、どうしたの?定時連絡さえろくに寄越さないあなたから連絡をとってくるなんて」
 アナの声には存分に皮肉が込められていたが、ナミには今、そんなことを気にする余裕は少しもなかった。
「・・・アナ、申し訳ないんだけど・・・霊力が、ほぼ尽きてしまったの。補充したいんだけど、あいにく動けなくて・・・。誰か、ここに寄越してくれないかしら」
 いつもと違う張りのない声に、事態の深刻さを感じたはずだったが、アナの声はいつも通りの冷静さを保っていた。
「珍しくあなたからの連絡だったから、何かマズイ状況に陥っているのだとは予想していたけど、思ったよりかなりひどい状況みたいね」
 ナミからの反応はなかった。事態は一刻を争うようね、アナはそう思いながら言葉を継いだ。
「あたしが行ければいいんだけど、ちょうど今、手が離せないの。ほぼ同時に三件の問題が発生して、他にも今しがた四人立て続けに人が死んで手配をしないといけないの。みんな出払っているし・・・あ、ちょうど今、一人適任者がいたわ。すぐにそちらに向かわせるわね」
 ナミは意識も朦朧としていたがこれだけは言わないと、と思い口を開いた。
「マスターだけはやめてね・・・。マスターが来るくらいなら私、このままここで回復するのを待つから」
「大丈夫よ。もちろん別の人よ。マスターを行かせるだなんて、そんなこと私がすると思う?」
 やりかねないと思ったから釘を刺したのよ、とナミは思ったが口には出さなかった。
「その人は、今、霊力を補充しているけどもうすぐ終わるから。終わり次第そっちに向かわせるわね。それまで位置情報だけはとぎらせないようにして、安全な場所で待機していて」
 誰が来るにしても急いでもらえるとありがたいわ、そう思いつつ再度左手をイヤリングに伸ばし、指先に触れるとそれを長押しした。イヤリングは微かな光量で点滅を始めた。これで常時位置情報を本部に流している状態になった。
「分かったわ。お願いね」
 通信が切れた。目と口を閉じたナミは、暗闇と静寂の中に、ただ身をゆだねた。
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