深層の中(9)

文字数 6,033文字

 灰色クマに姿を変えたルイス・バーネットが待っていると、黒犬が最初ぽつぽつと、次第に雪崩れ込むように独居房に侵入してきた。言霊を掛けた看守も何匹か黒犬を破裂させていたが、数に物を言わせて黒犬たちはタカシ目掛けて次々に押し寄せてきた。灰色クマは、そのほとんどを前足を振り回してなぎ倒して、消滅させた。時折、その足元をすり抜けてタカシに襲い掛かろうとする黒犬もいたが、とっさに上げた灰色クマの足に踏みつけられてやはり消滅した。
 黒犬たちは次第にこのクマがいる限り、目標に達するのは難しいことを察して先ずは目前の障壁を取り除く、という方針に集団の意思として転換していった。
 矢継ぎ早に黒犬が灰色クマに襲い掛かる。腕や足や首回りに噛みついてこようとする。灰色クマはその連携の取れた攻撃に負けないように対抗していく。しかし次第に追いつかなくなり、腕に噛みつかれ、足に噛みつかれ、首に噛みつかれた。黒犬は瞬時に黒い霧に変化して、灰色クマの体内に侵入を試みた。
 その刹那、灰色クマの身体が光った。周囲に漂っていた黒い霧はその光に吹かれるように霧散した。
 その光は一瞬広がった後、急速に一か所に集まって固まった。
 太い四肢に大きな顔、顔の周りにはふさふさと揺れる豊かなたてがみがあった。そのネコ科の獣はまだ室内に押し寄せてくる黒犬たちに向かって、黒犬の頭を軽く丸ごと一呑みにできそうな大きな口、ネコ科特有の骨まで砕きそうな鋭く大きな牙が並ぶ口を目一杯開きながら、威圧するには有り余るほどの獰猛な咆哮を辺りに響かせた。
 黒犬たちの足が止まった。警戒心の塊になったようにルイス・バーネットの変身前の名残もない姿を凝視しながら隙をうかがった。
 その頃には、言霊を掛けられた看守はもう独居房の中にはいなかった。その看守はよく言霊の内容を守り、より多くのケガレを滅するべく廊下へと移動していた。看守はすでにケガレに乗っ取られていたので、黒犬には対抗する術がなかった。体内に侵入したとしてもそれ以上、もう攻撃することができない。だからかろうじて動きを止めるべく、腕や足に噛みつき、ぶら下がっていた。それでもその看守はそんなことを気にも留めず、発砲しては充填し、充填しては発砲していた。
 廊下から何度か定期的にエネルギー弾の破裂音が聞こえてきた。ルイス・バーネットはその鋭い爪と牙で、更に室内に向かってくる黒犬たちを攻撃し、粉砕していった。
 室内にいたケガレの類があらかた姿を消した頃、廊下から激しい破裂音が聞こえた。何発かのエネルギー弾が一度に破裂したような音だった。とっさにルイス・バーネットは新たにケガレに憑依された人間たちが駆けつけてきて、言霊を掛けた看守が倒されてしまったことを察した。
 新たに集まってきた看守たちの革靴が奏でる、いくつかの足音が近づいてくる。ルイス・バーネットはすぐさま変身をはじめた。再び人の形に戻った時には足音はすぐ近くまで迫ってきていた。
 ルイス・バーネットの全身は疲労感にさいなまれていた。立てつづけに能力を使ったことで、彼の霊力は著しく減退していた。
 彼の能力、人に命じたり言霊を掛けて思い通りに行動させる言葉の能力と、他の生き物に変化する変身能力は、作用させるには多少の時間を要する。その短い間に一気に集中して発動させるので一瞬にして霊力が目減りしてしまう。何度もくり返し能力を発動させる場合は霊力の残量に注意が必要だった。だからナミの能力、飛行能力と圧縮能力などは継続してしばらく発動することができたが、彼の能力ではそうはいかなかった。
 彼は焦りを感じはじめた。自分の霊力の残量が心もとなくなってきた。あと何度発動することができるのか、はっきりとは分からないが、恐らく三度も発動させればこの場で動けなくなってにっちもさっちもいかなくなりそうに予想された。あと二回、発動する間に現状をどうにかしないといけない。
 新たな看守たちは、もちろん銃を携帯しているだろう。なら獣の姿では狙撃される可能性が高い、そう思って彼は人型に変化していた。再度、言霊を掛けることで突破口を開くつもりだった。
 ルイス・バーネットは瞬時に独居房から廊下に飛び出し、その場にいたケガレたちに言下に命じた。
「動くな」

「アビ、扉を開けて。どうしたの、早く扉を開けなさい」
 運転席を後部席から隔離する壁を叩く音に混じって、ツグミの声が聞こえた。呆然とノスリが飛ばされていった先を眺めていたアビが我に返った。とっさに運転席のパネルを操作して全ての扉と、運転席と後部席を遮蔽していた壁を開いた。
「ノスリ隊員がフロントガラスから外に投げ出されました」
 アビが後方の兵士たちに言った。みんなの視線がフロントガラスがあった場所からノスリが投げ出された方向に向けられた。
 救急車両が衝突したために辺りは粉塵が舞って視界は霞んでいたが、ぼんやりと一人の兵士が横たわる姿が確認できた。ノスリはうめきながら上体を起こしはじめていた。身体を激しく打ちつけたのだろうが、幸いにも命に別状はないようだった。
 頑丈にもほどがある、そう言いたくなるくらいのノスリの堅強さがこれから訪れるだろう戦闘に臨む兵士たちには、たまらなく心強く感じられた。
「アビ、退がれ」
 イスカが運転席に近づきながら言った。エナガがすぐにつづいて車両前方に移動した。アビは運転席から離れ後方に自分の銃を取りに下がった。イスカとエナガはダッシュボードに身を隠しながら、フロントガラスの跡から銃口を外に向けて警戒した。
「ノスリ、大丈夫か」
 エナガがそう声を掛ける頃には、ノスリは完全に上体を起こしていた。
「早くこっちに戻れ」
 イスカがつづいて声を掛ける。ノスリはまだ身体が痛むのかゆっくりと兵士たちのほうへ身体を向けて這って少しずつ移動をはじめた。
「みんな車両を降りて、ノスリを援護するわよ」
 ツグミの声に後部車両に乗っていた兵士全員が両脇の扉から救急車両を降り、各自、車両の両側から壁に伸びている車両の足にHKI―500の銃身を置いて迎撃態勢をとった。
 少しずつ粉塵が晴れてきた。兵士たちの目にケガレたちの動きを目視することができるようになった。
 数匹の黒犬がノスリの方向に顔を向けて並んで立っていた。しかしそれ以外のケガレはノスリや他の兵士たちには無関心のようだった。五本並んだ通路のそれぞれから次々に姿を現わすケガレたちは、兵士たちにはいちべつもくれずに兵士たちから見て最右翼の通路に向けて移動していた。
 そのケガレたちの動きを見て、ツグミは察した。ケガレたちの向かっている通路の奥に選ばれし方様はいる。そしてまだ生存している。
 ノスリは次第に早く移動するようになった。そして間もなくツグミたちのいる場所まで移動して、おもむろに立ち上がった。イカル班の班員の一人が用意していたノスリの銃を手渡した。
「ノスリ、選ばれし方様は右側通路の奥にいるわ。すぐに助けに行かないと」
 ツグミの声に、ノスリは視線をツグミに、そしてエントランスホールに向けた。確かにケガレたちが右側の通路に向かって次々に移動している。
「分かった。全員右側通路の入り口に移動するぞ。各自向かってくるケガレを攻撃しつつ通路に入れ。俺に続け」
 そう言い終わるとノスリは走りはじめた。先ほど車の窓から飛ばされて、床に身体を打ちつけた人間とは思えない速さで駆けた。兵士たちはあわてて、右側通路に移動しているケガレたちを攻撃しつつ後を追った。
 各通路には、面会室や執務室や警備室等の部屋が入り口付近に並んでいた。ノスリは発砲しながら右側通路に向かって走っていった。兵士たちも考える間もなく発砲しながらその後を追った。
 ケガレは次々に右側通路に向けて移動していたが、攻撃しつつその間を縫ってノスリは右側通路入り口に達した。兵士たちも無事通路に移動した。
 兵士たちはノスリの指示に従い、通路入り口両側にある部屋に入った。そこにある窓を開けて迫るケガレに狙いをつける、とホールの奥からエネルギー弾が彼らに向かって放たれた。どうやらケガレに憑依された看守か囚人かが銃を使って攻撃をしてきている。彼らのいる場所に近い壁からつづけざまに破裂音がした。彼らは気安く窓から顔を出せなくなった。しかし黒犬や円盤が更に次々とこちらに向かってきている。兵士たちは覚悟を決めて攻撃するしかなかった。
 通路入り口のすぐ横にある部屋、それは通路に出入りする人たちを確認するための監視室のようだった。机と椅子と通信機器があった。ノスリたちにつづいてその部屋に入ったツグミは、窓際の壁に背中をつけて座り込んだ。座った瞬間、彼女の身体を流れる血がまるで溶解した鉛のような重さを持って全身の各部の重量を重くさせたように思えた。やがてツグミのまぶたも、あらがえないほどの重さをもって彼女の瞳に覆いかぶさってきた。
 あまりにも一度に多くのことが起こっていた。それに必死に対処しようとして肉体的にも精神的にも疲弊の極に達していた。もう丸一日寝ていない。それに各所の傷から血が流れていたためにやや貧血気味でもあった。ああ、だめ、しっかり目を開いておかないと、そう抵抗しようと内に向けて発した声を最後に彼女の意識はふっと途切れた。
「先輩、大丈夫ですか?」
 アビは気を失って、床に横倒しに伏したツグミに駆け寄りながら、救急用品袋から機器を取り出して、その頭から足の先までゆっくり上を移動させて身体全体の状態を調べた。
 脳波に異常はないわ。少し心拍が弱いかしら。きっと気絶しているせいね。それとケガしているから血が足りないかしら、そう思いつつアビはツグミの全身に無数に点在する切り傷、擦り傷、裂傷の類を機器を使って治療しはじめた。
“こんなにボロボロになって。気絶するくらいに疲れ果てて。本当になんて人なの”
 傷という傷の中で一番大きく深かった脇腹の治療をした際、ツグミはうめいたが、目を開きはなしかった。
「ヘラサギ、カワウ、お前たち通路奥に偵察に行ってこい。どの程度のケガレがいるのか、選ばれし方様がまだ存命なのかどうか様子を見て来い」
 かろうじて残っていた窓ガラスが、エネルギー弾の破裂が起こす振動によって割れ、その破片が降り注ぐ中、ノスリが横にいたイカル班の班員二人に命令した。
「了解です」
 ヘラサギとカワウが同時に言って、通路へと出て奥に駆けていった。
 エントランスホールからは次々に黒犬や円盤が襲撃をくり返していた。時折、襲撃がやむとエネルギー弾がつづけざまに彼らに向けて発射された。
 ツグミとアビを含めて七名が監視室内にいた。通路入り口にはエナガ他三名が襲撃してくる黒犬や円盤に対応していた。ツグミとアビ、それに偵察に行った二人を除いて九名でケガレの襲撃や攻撃に対応している。はっきり言って手一杯だった。ノスリは焦りを覚えはじめた。エネルギ―のバッテリーは充分持ってきているのでまだ弾切れになることはなかったが、やってくるケガレに対応するばかりで、現状を打破する手立てを見出すこともできない状況だった。
「指揮官、通路半ばから先は各種ケガレで埋め尽くされています。その数は不明です。とにかく通路いっぱい埋め尽くされています。ただ、通路奥からはHKIー500の発砲音が何度か聞こえました。どうやらケガレに抵抗している勢力があるようです。選ばれし方様の生存は確認できませんでしたが、抵抗勢力がいる以上、存命している可能性が高いかと思われます」しばらくして偵察の二名が戻ってきて報告した。
 選ばれし方様の生存があいまいなのが気にはなったが、現状、何とか彼らが守る通路にケガレの侵入を阻むことができている。人数を割くことは避けたかったが、この状況を保っているうちに選ばれし方様を救い出せることができればそれに越したことはない。
「トビ」
 ノスリが、班員を連れて、選ばれし方様の救出に向かってくれ、と指令しようとしたその時、ツグミが唐突に目を開いて、上体を起こそうとした。全身のあらゆるところから激痛が折り重なるように彼女に襲い掛かった。彼女は顔をゆがめつつも起き上がった。
「ダメですよ、まだ動いたら。外側の傷は治療したけど、内部の傷はまだそのままなんですから」アビがあわてて諭すように声を掛けた。
「行かなきゃ、あたしが、イカルを、助けに行かなきゃ。タカシ様を、お方様の所に、連れて行かないと、いけない・・・」
「おい、ツグミ、大丈夫か」
 そう言うノスリに視線を向けてツグミが言った。
「ノスリ、あたしが選ばれし方様の救出に行くわ。カワウとヘラサギを連れていくわよ」
「できるのか?」
 ノスリはツグミの目に視線を移しながら訊いた。その目にはもうすでに覚悟の色が見えていた。
「そんなの分かるわけないじゃない。でも行くしかない、そうでしょ?」
 もう自分の中でどうするか決めてしまっているな、どうせ止めても聞きゃしないな、俺も頑固だけど今のこいつには負けるな、そう思いながらノスリは微笑んだ。
「分かった。ここもいつまで持ちこたえられるか分からない。急いで帰ってこいよ」
「分かったわ」
 そう言うとツグミはケガレと対峙している、自らが所属している班の班員たちの姿を眺めた。そして班員たちの中で特別に背の高い二人に唐突に声を掛けた。
「ヘラサギ、カワウ、付いてきて。選ばれし方様を救出に行くわよ」
 名前を呼ばれた二人は、はっ、と答えてツグミのそばに駆け寄ってきた。
「替えのバッテリーは持ってる?あなたたちなら身体が大きいから少しくらいケガレに襲われても大丈夫よね」
 ヘラサギは色白だった。上の前歯が少し外側に向けて出ていたので、表出しないようにいつも意識的に真一文字に口を閉じていた。そしてそれが癖になっていた。カワウは色黒で、短髪ではあるが艶のある黒髪を整髪料を使って後ろに撫でつけていた。あまり瞬きをせず、いつも目を見開いているように見えた。
「さあ、行くわよ、ついてきて」
 そう言うが早いかツグミは走り出そうとした。
 ヘラサギとカワウは同時に短く答えて動き出した。二人ともアビと同期の生まれで、入隊してイカル班に配属されてからもう二年あまり経っていたが、こんなに明確にツグミから指令を受けたのは初めてだった。何かすごく新鮮な気がしていた。
「待ってください。あたしも行きます」
 ツグミの背中にアビの声が投げ掛けられた。ツグミは振り返って言った。
「ダメよ、アビ。あなたはここにいて」
「でも」
「あなたにもしものことがあったら誰が負傷者を看るの。誰が救急車両を運転してここから脱出するの?」
 ツグミは厳しい視線と声をアビに向けた。
「分かりました。待機します」
 アビとしてはいつまたツグミが倒れるかもしれない、そう思ったから同行したかったが、仕方なく従うしかなかった。
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