深層の中(12)

文字数 5,120文字

 この人、狂ってしまったの?ツグミはタカシを見る自分の目つきが悪くなることを仕方がないと思った。今まで信頼できる人だって思ってたのに、何なの、本当はそんなこと思ってたの?幻滅。でも、イカルのために、このひとをどんな手を使ってでもここから連れ出さないといけない。
 ついこの間までなら、自分の思い通りにならない状況には、ただ目を背けてしまうだけだった。自分の思い通りにならないことは自分には関係のないこと、そう割り切って脳内から切り離していた。でも今はそれが許される状況ではない。イカルの命があたしに掛かっているのだから。
「だから何?」
 ツグミの視線がタカシの目から胸の中にただまっすぐに流れ込んできた。その視線に縛られたように、タカシは眼前の少女から目をそらせなくなった。
「この世界がただの想像の産物でしかないとしても、あたしたちが例えただの幻だとしても、そんなこと、あたしには関係ない。だって、あたしこうして生きてる。この世界の寿命が残りわずかだとしても、それが何?それまで必死に生きる、それだけよ。だってそうするしかないじゃない。あたし今、ここに、こうして、生きているんだから!」
 その気持ちの乗った言葉が、耳から胸の中に流れ込んでくる。胸の空洞に達して滝水のように流れ落ちていく。空洞の奥底から吹いてくる風を凌駕して、押し返して、暗闇の奥底へと追い返していく。
 そして風がやんだ。
「あたしは昔、いじめられてたの。何度も死んでしまいたいと思ったわ。あたしはいらない子。あたしがいると人が不快になる。いない方がみんな幸せ、そんな風に思ってた。でも死のうと思う度に声が聞こえるの。自分の奥底から、死にたくない、生きていたいって。だから必死に耐えた。耐えて、耐えて、耐え続けて、そしてイカルに救われた。あたしにはイカルが必要なの。イカルがいないとあたしの命は枯れてしまうの。だから助けて、お願い!」
 ツグミの言葉が更に空洞の奥底に向かって勢いよく、とても強く流れ込んでいった。
 タカシの頭に激痛が走った。目をつむり両手で頭を抱えた。頭の中の奥深く、常に光の当たらないどこかで何かが大きな声で叫んでいる。自分はここだと主張している。自らを囲っている堅固で高い壁を壊そうと叩きつづけている。
「思い出して。あなたにとっても、お方様、いいえリサ様は、何より大切で、何より必要な人でしょう?あなたに生きる意味を与えてくれる存在でしょ?唯一、心の底から、魂そのものから愛しているって言える存在でしょ!思い出して、お願い!」
 頭が痛い、誰かが壊している、壁を壊している、頭の中にガンガン響く、痛くって耐えられない。やめろ、やめてくれ。
 ツグミはタカシの右腕を手に取って手首のアザを苦悶の表情を浮かべて頭を振っているタカシの目の前に示した。
「これを見て!これはあなたたちがつながっている証でしょう?他の誰でもない、あなたはリサ様とつながっているのよ。今、リサ様はケガレに囲まれてたった一人で耐えているわ。もうあんまりもたないかもしれない。私たち以外の治安部隊が総出でケガレを掃討しようと今、命がけで戦っているわ。でもリサ様を助けることは無理。ケガレが多すぎるの。みんな死んでしまうわ。助けられるのはあなただけなの。リサ様も、みんなも!」
 タカシは苦痛の表情を呈するばかりだった。ツグミは右手を差し出してタカシの肩をつかんだ。
「いいから立って!今、できることをして!」
 ツグミはつかんだ手でタカシを揺すった。しかしタカシは苦痛に耐えているばかりだった。ツグミのやりきれない思いがあふれ出した。
「さっさと、リサ様も、みんなも、助けろよ・・・」
 誰かが壁を叩きつづけている。ガーン、ガーン、ガーン、ガーン!と鳴り響いている。痛い、やめろ、やめてくれ、でもそこに今、行かないといけない気が無性にする。大切な何かが、大切な誰かがそこにいる。彼は音を頼りにその壁を捜した。痛みに耐えながら、必死に頭の中を駆け巡った。
 色んな場景や記憶や思い出を通りすぎた。やがて道はひとつになった。彼の思考の終着点。彼の思考と行動のすべての帰結点。すべての思考と行動の理由であり、意味であり、目的であるその人の場所に。
 壁は高く、厚く、固かった。内側から誰かが叩いている。打ち破ろうとしている。でも壁は壊れる気配すらなかった。彼の力が必要だった。彼の力でもどうにもならないかもしれなかったが、彼が動かなければ何の変化も期待できそうになかった。
 彼は壁を叩いた。この中に自分の一番大切な人がいる。その予感のままに力の限り。打撃音が頭に響く、壁が揺らぐ、でも壊れる気配は感じられなかった。
 彼は頭の中にある壁を叩きつづけた。叩きつづけるうちにかすかに目を開いた。目の前に、口を真一文字に結び、険しい表情をして自分をじっと見ているツグミの姿があった。
“このコの微笑みが見たい。笑顔が見たい・・・このコの?”
 彼は痛みに耐えながらも声を出した。
「ツグミ、笑ってくれ」
「えっ?」不審感満載の顔つきをしていた。微笑みとは真反対な表情だった。
「頼む、無理をしてでも、笑ってくれ。頼む」
 ツグミはいぶかりながらもとりあえず笑おうとした。しかし元来、人に笑い掛けることに慣れていないせいもあり、愛想笑いなんてまずしないたちでもあり、うまく笑えているのか半信半疑なままでの笑顔だった。
 実際、状況が状況であったし、不安定な精神状態でもあったので顔の至る所がひきつっていた。これは笑顔だと思って見るとかろうじて笑顔に見えるかもしれないという表情だった。
「怒ってないで、笑ってくれ。頼むよ」
 痛みがどんどん増していく。気が遠くなる。
「笑っているわよ。いじわる言わないで。あなたがそんなにイヤな人だなんて思わなかったわ」
 ツグミが不満そうな顔つきをしていた。
「それで笑ってるって?そんな顔ばっかりしてるから後輩に怖がられるんじゃないか」
 タカシはつい思っていることを口に出した。
「怖がられてないし。敬意を持って慕われてるだけです」
 ツグミは更に不満そうな顔つきをした。その顔を見てタカシは微笑んだ。痛みに耐えつつだったので所々ひきつってはいたが、ちゃんとした笑顔にはなっていた。
「ツグミ、さっき俺が言ったことは間違いだ。君の言った通りだ。君たちは今、ここにちゃんと生きている。ちゃんと自分で自分の人生を生きている。イカルは俺の生まれ変わりだ。信じられないかもしれないが本当なんだ。だから俺はこれからイカルを助ける。君がこれからもちゃんと生きていけるように。俺を信じてくれ。いいね」
 ツグミは、タカシの微笑みにつられて、ごく自然に微笑んでいた。
 周囲が明るく照らされたように感じた。
 タカシは思い出した。
 自分にとって今まで一番大切な人の存在を、そしてこれからも一番大切にしたい人の存在を。
 
 リサは、人と話していない時は少しうつむき加減になる。
 だからよくその表情に影をたたえている。
 人の話にあわせて笑う時は、心から笑っているのかどうか分からないことがある。
 でもいったん心から笑うと、その笑顔は光輝くように周囲を華やかにする。
 心の中を影ひとつなく照らし出す。
 限りなき光量に目はくらみ、他には何も視界に入らなくなる。
 その笑顔の他は。

 彼の頭の中、壁にあらゆる思い出や記憶が投影された。ひとつひとつ大切な思い出。けっして忘れてはならない記憶。次々に目の前にあふれ出てくる。
 彼ははっきりと認識した。この壁の中にリサがいる。
 だから右手を差し出した。リサの手の跡が白く光っていた。
 右手は壁を通り抜けた。つづいて全身が壁の向こう側に通り抜けた。
 そこに彼女がいた。
 彼は彼女に微笑み掛けながら言った。
「今から会いに行くから、もう少しだけ待ってて」
 彼女も優しく微笑んでいた。

 彼はすくっと立ち上がった。頭の痛みも気分の悪さもすべて忘れた。彼は目的に最短最速で向かうことしか考えていなかった。へたり込んだように座って彼を見上げるツグミに視線を向けた。
「ツグミ、戻ったよ。今からイカルを、いやみんなを助けに行く。どうしたらいい?教えてくれ」
 さっきの暴言を吐いていた男とはまるで別人だった。まだ不信感は残っているものの今は彼にすがるしかしようがない。
「あなたをリサ様の所に連れて行かないといけません。リサ様があなたに会えればみんなを、この世界を救うことができるって言っていましたから」
「偶然だね。俺も今からリサに会いに行こうと思ってたところだよ」
 やっぱりすべてはリサに会うことでうまくいくみたいだ。
「でも今、リサ様がいる塔はケガレに囲まれています。白い塔が真っ黒になるくらいに。誰も近づくこともできない状況です。どうするんです?」
「ん?どうにかなるさ。今までもどうにかなったしね。それよりナイフを貸してくれないか?」
 状況はあまりかんばしくないようだったが、不思議と恐れもたじろぐ気持ちもなかった。目的と目標がはっきりと定まった今、ただそれに向かって邁進するだけだった。
「とりあえずA地区に向かいながら塔に侵入する手段を考えましょう」
 ツグミは常備品の刃渡り十五センチほどのナイフの柄を彼に向けて渡しながら言った。そして立ち上がろうとした。
「いや、それより君は大丈夫か。あまり動き回れるようには見えないけど。」
 彼は渡されたナイフを右手に持ち、左手の親指にその刃を当てながら言った。
「大丈夫です。あたしも一緒に行きます」
 ツグミは見るからに満身創痍だった。いつ気を失って倒れてもおかしくない程に見えた。さっきから立ち上がろうとしているが、ふらついてうまく立ち上がれもしない状態だった。ただイカルの命の危機にジッとしていられない気持ちだけで意識を保っていた。
「ダメだ。そんな状態で動いてもすぐ倒れるだけだ。助けを呼んでくるから待っていてくれ。いいね」
「イヤ、あたしも・・・行きます」そう言いながらツグミは再度立ち上がろうとしたが、床に着いた腕から急に力が抜けて、横向きに倒れ込んだ。そしてそのまま気を失った。
 タカシが確認すると、脈もあり、息もしていた。純粋に気を失っているようだった。だから、とりあえずこの場からツグミを運んでやらないと、とは思ったが、先に自分がしなければならないことをしようと思った。彼は自分の左手親指にナイフの刃を当てて横に動かした。思いのほか切れ味が良かった。血が滴となって流れ落ちた。彼はそのまま痛がる様子も見せずに顔を上に向けて、腹の底から声を上げた。
「ナミーッ!」

 自分を呼ぶ声が、遥か彼方から聞こえてきた。ナミはジッとルイス・バーネットの目を見て少し微笑んだ。
「ほら、私の勘はよく当たるのよ」
 ルイス・バーネットは視線を重ねたまま苦笑した。
「そうだった。時々君は動物的な勘を発動する人だった」
 ナミは背を正し、真顔になって言った。
「もう私たちの邪魔はしないで。今度、邪魔したら本当に殴るだけじゃすまないからね」
「邪魔はしないよ。君と彼にとって一番良い結果が得られるように干渉するだけだ。そして僕が君と再び生き返って出会えるようにするだけだ」
 ナミは少しの間、身動きもせず立ち尽くした。そして何かを言おうとして口を開きかけて、思い直して口を閉じ、再び開いて言った。
「もう私、行くわ。じゃあね、ヒフミ」
 そしてナミは姿を消した。

 タカシの叫びの余韻がやんで少しの間、辺りは静寂に包まれた。
 あれ、ナミは今、どこか別の人の魂に出張しているのだろうか?イカルは自分の左手を見た。血が滴り落ちている。先走ってしまった、ナミが現れてから切れば良かった、彼は反省した。
 その時、視界の外で空気のかすかな揺れを感じた。
「呼んだ?」
 彼は横を向いた。
 ナミがいた。
 白いシャツと黒いパンツの上に黒い革のコートを羽織り、その上に少しウェーブ掛かった明るい色の長い髪を無造作に垂らしていた。
 壁に背をもたれて腕を組んで立っていた。
 彼は、自分の血だらけの親指を差し出しながら言った。
「契約、やり直さないか?」
 ナミはごく冷たい視線を彼に向けて言った。
「あなた、やっぱりバカ?そんなにインクいらないわよ。ちょっとでいいのよ、ちょっとで」
 彼は笑った。安心した。これで前を向いて歩いて行けると思った。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み