廃墟の中(9)

文字数 5,418文字

 目を覚ますと辺りは漆黒の闇に包まれていた。
「アトリ!」とっさにタカシは呼んだ。
 床に倒れた状態のまま耳を澄ます。先ほどまで周囲を圧していた、すべてをなぎ倒そうとするかのように渦巻いていた、暴力的な、凄まじい風音はもはや聞こえなかった。そして人の存在を示す音も、何も聞こえなかった。
 彼は歯を喰いしばり、目を固く閉じた。目頭や口の端から漏れ出ようとするものを必死に抑えつけた。
 しばらくして、自らの情動が落ち着いてくると、再び目を開いた。
 変わらぬ闇しかなかった。本当に目を開いているのか疑わしくなるくらいに、完璧な闇しかない。そして誰もいない。
 顔が濡れている感じがした。先ほど衝撃を感じた額に指先で触れてみた。うめきたくなるような痛みを感じた。どうやら裂傷ができて、そこから血が顔中に流れていたようだ。痛みを覚悟しつつまだ血が流れていないか確かめるために、再び傷口に触れた。どうやら血は止まっているようだった。少し寒さを感じた。けっこうな量の血が体外に流れ出たのかもしれない。
 周囲を見渡してみた。とりあえず何もない。いや何かあるのかもしれないが闇の勢力の強さにすべてのものが身を隠していた。
“これからどうしたらいいのだろう”すっかり気力は萎えてしまっていたが、最期にアトリが遺した言葉を思い出して、無理矢理、自分を奮い立たせた。
 ただ、現実問題どこに行くべきなのか皆目見当もつかない。とりあえず手を床について上体を起こしてみた。身体の上にも周囲にも大量の瓦礫や砂が積もっていた。そんな瓦礫や砂を身体の上から落としつつ上体を起こした。床の冷たさとともに手にべっとりと血が着いた感触がした。やはりけっこうな血が流れ出たようだ。這うようにして少し移動してみた。すぐに血の池を脱して床本来の冷たさを手のひらに感じた。横に手を広げた。何も触れない。手を上にあげた。何も触れない。案外広い空間のようだ。
 彼はゆっくりと立ち上がり、周囲を手で探りながら進みはじめた。三歩ほど足を運んだ所で手が壁面に触れた感触があった。どうやら正面は壁のようだ。さて、右に行くか左に行くか迷った。何しろ周囲を見渡しても重苦しい闇しか見えない。
 彼が逡巡していると突然、鳴き声が辺りに響いた。それほど大きな鳴き声ではなかったが、自分の呼吸音さえ騒がしく聞こえるほどの無音の空間の中だったので、ひときわ響いて聞こえた。
 猫の鳴き声のような、何かの鳴き声。もう一度聞こえた。やはり猫の鳴き声っぽい。でもゴニョゴニョと話しているような鳴き方だった。彼は声のした方を向いた。
 目を凝らすと光とも言えない程のほのかな二つの眼光が見えた。何かの生き物がいるのは確かなようだった。彼は慌ててその方に向かって壁伝いになるべく姿勢を低くしながら進んだ。上方は充分な高さがあるようだったが、いきなり突起物などがあって頭に当たるかもしれない怖さを感じて自然と姿勢を低くたもっていた。
 何事もなく進んで、猫らしき生き物のすぐ近くまでたどり着いた。するとその生き物はまたゴニョゴニョと何かを言って、奥へと歩きはじめた。その生き物が進行方向へ顔を向けると何も見えなくなるが、時々振り返ってこちらを見る目の光で、方向の正しさを確認しながら歩いた。間が空くと生き物は立ち止まって待ってくれる。タカシはなるべく間が空かないようについて行った。曲がり角に差し掛かるとその生き物は立ち止まり、またゴニョゴニョと言いながら彼を待った。いくつかの角を曲がった先で急に視界が回復した。
 通路の先に光が見えた。闇に慣れた目にはかなりまぶしく感じた。
 通路を進んでその開けた空間に入る。学校教室くらいの広さがある。周囲を見渡す。自ら光る白い石に壁も床も天井も覆われていた。奥には更なる空間が広がっているようだったが、下方向に続いているようで彼の立ち位置からは入り口しか見えなかった。目の前、少し離れた所に黒猫がいた。
「にょーにゃにゅにゃにょりにゅににゃね」
 黒猫が鳴いた。何かしゃべっているようにしか思えない鳴きっぷりだった。彼は少しけげんな顔つきをした。
「にゃにゃーににゃのにゃにゃねねにゃににゃ」
 黒猫は言い終わって少し首を横に振った。すると次の瞬間、黒猫の身体が白く光りはじめた。その内部が光っていた。目や口や鼻や耳から光が漏れた。
 映画の中の映像にしか見えなかった。
 目の前にいたはずの黒猫が見る間に高さも大きさも質量も増して、姿形を変えていった。どんどん上に伸びていく。次第々々に人の姿になっていく。
 あっけにとられて、眺めているうちに一点の隙もない、口元に微笑みをたたえた紳士が目の前に現れた。全身を包む色は、ほぼ黒猫そのままに、黒い山高帽と夜会服、靴も当然のように黒光りしていた。
「猫ちゃんの姿も、忍び足で誰にも気づかれずに動き回ったり、夜目も利くから狭くて暗い場所を移動するのにはとてもいいのだけれど、やはり会話をするには不便だね。創造主はなぜオウムにはしゃべる能力を与えて猫には与えなかったのだろう。きっと創造主はオウムを創造する時に限りなく孤独だったんだろう。騒がしいくらいにしゃべる誰かを必要とするくらいに。それはそうとまだ自己紹介もしていなかったね。私はルイス・バーネット。君の魂の送り霊であり守護霊だ。送り霊については七十三番に聞いているかと思うけど、まだ説明が必要かな。まだ君は生きているから本当なら私の存在など知る必要はないのだけれど、現状はそうも言っていられない。よくよく納得して、いるべき場所に帰ってもらわないといけない。そのために説明が必要なら誠心誠意、鋭意努力を惜しまず説明させていただくよ。ただ、現状、他人の自我の中にいるという、驚くべき、かつあまり好ましくない状況なので、すべての殻を取り去って正直に言えば、極力時間を費やさず君を連れ帰りたい。それは私の誇るべき仕事のためなのだ。君もいろいろと思うところはあるだろうが、どうか納得して、従っていただきたい」
 いきなり黒猫が紳士然とした人の姿となり、突然、何の脈絡もなく話しはじめた現状にタカシはただあっけにとられるばかりだった。
「凪瀬タカシ殿、大丈夫かな。頭を強く打ったようだけれど、まだ意識が朦朧としているのだろうか?」
 そう言い終わった後、ルイス・バーネットと名乗った目の前の男が、彼のことをジッと見つめていることに気がついた。どうやら自分の答えを待っている、そう察して彼は言った。
「あなたが俺の送り霊?守護霊?俺を連れて帰る?ダメだ。できない。説明するのは難しいけれど、いろいろと事情があるんだ」
 目の前の男は優しく微笑んで言った。
「君のことについて私に説明するなんて、今まさに空を飛んでいるワシに飛び方を教えようとするみたいなものだ。送り霊であり守護霊である私にとっては、君に関することは現世デビューした日のことから、甘美なるファーストキスの相手のことまで詳細かつ確実に把握しているよ。君は愛する、いや愛しすぎる山崎リサの命を現実の世につなぎ止めておくべく、自分の意識を彼女の自我に送り込み、崩壊をはじめたその自我の欠片をかき集めて組み立て、修復しようと試みている。時々七十三番の力を借りつつね。そう七十三番だ。まったく、困ったものだ。私の担当する霊を、自分の範疇を逸脱して世話を焼くだなんて。彼女には後で私からしっかりと説教と説得をして納得してもらうから安心したまえ」
「いや、ナミは俺を自分の頭の中に帰そうとしたんだ。でも俺が無理を言って協力してもらったんだ。きっと迷惑だっただろうし、困っていたと思う」
「ナミ?ナミとは七十三番のことかい?ああ、七と三だからナミか。送り霊、君たちの言う死神に名前をつけるなんて、変わったことをする人だ。なかなか楽しい人のようだね、君は」
 タカシは人の話を聞くのは特に苦痛にならない方だったが、今のように血の足りていない時に長々としゃべられると、立ったままの姿勢では平衡感覚がおかしくなって、頭が自然と揺れていく。ただ目の前の男が怪しさの塊のようにしか思えなかったので、意識をしっかりたもち、警戒心を弛めないように努めた。
「おや、だいぶつらそうだね。ケガのせいかな。それならなおさら帰るべき場所に戻らなくてはね。何たって君の意識は、君の自我の中では完全無欠なのだよ。そんなケガなんてハンカチでひと拭きすればたちまち元通りだよ。さぁ、戻ろう。君の世界へ。色々と拘泥することもあるだろう。人は年をとればとるほど拘りが重要になってくる。それが人としての深みを与えてくれるからね。でも君が拘るべき事柄は今ここにはないんだよ。忘れるべきことは忘れることも大切だ。さぁ、よく訓練されたシープドッグに導かれる羊のように大人しく私と一緒に来ておくれ」
 男は、それ自体が光を発しているかと思われるほどに、真っ白い手袋をはめた手を、彼に差し出した。
「しばらく猶予がほしい。今はまだ帰れない。どう説得されても今は帰らない」
 薄れゆく意識を懸命につなぎながら、言葉に自分の意志を乗せて、なるべく断固とした口調になるようにタカシは言った。
「私は極力、自分の担当する御霊保持者とは友好的な関係を築きたいと思っているのだがね。力も使わずにね。でも君の意志も固そうだし、時間もそう掛ける訳にもいかないので、今回は仕方のないことだと了解しておくれ」
 そう言うと男は、斜に構えていた身体を彼に正対させ、ずっとたたえていた微笑みを消し、全身の居住まいを正した。そしておもむろに彼に向かって手のひらを差し出しながら力のこもった声を発した。
「我が御霊宿りし言の葉が汝の桎梏となる。汝、我に随従せよ。汝、この世界を出でよ。自らの身体に戻れ。自らの身体に戻りて、目覚め、そして現実世界を生きよ」
 タカシはハッと息が詰まる感覚を抱いた。そしてそれと気づく間もなく自らの意思が影を潜めた。
「私が霊力を使って発した言霊は、相手を完全に拘束する。しかしそれだと相手の精神に多大な負荷が掛かってしまうので、今回は軽めに発しておいた。それほどつらくはないと思うよ。安心したまえ。それでは、行こうか」
 再び斜に構え、微笑みをたたえて男が言った。タカシは静かにうなずいた。
「君の人生で一番大切なことは、定められた時までちゃんと生きるということだ。他人の命などそのことに比べれば水鳥の羽ほどの重きもなさない。さぁ、行こう」
 男は再び真っ白におおわれた手を彼に向かって差し出した。タカシも自らの手を差し伸べた。男の右手に自分の左手を伸ばした。意識がぼやけていた。ただ聞こえてくる声に、男の声に従わなければいけない気だけが脳裏に満ちていた。
 もう少しで手と手が触れ合いそうだった。彼は男の手に触れるために無意識に一歩踏み出そうとした。しかし身体は前に進まなかった。自分の右手が後方にあってそれが動かないので前に進むことができなかった。彼は自分の右手を見るために振り返った。
 右手首が何かにつかまれていた。それは床から伸びていた。白い棒状の何かが彼の右手に伸びていた。そしてそれは彼の右手首ではっきりと人の手の形となって彼をつかんでいた。彼は驚いてハッと我を取り戻した。
「何てことだ。もしかして君は意思を取り戻したのか?言霊の効きが弱かったのか?全くの予想外な事象だな。どうやら君はこの自我に大層ご執心らしい。それにこの自我は君を連れて行くことに反対なようだ。大変興味深い。しかし悲しいことにそんな思いもかなえてあげることは私にはできないのだ。私は私の仕事をしないといけないのだから。だから君たちは即座にそのつないだ手を離して互いに別れを告げなさい」
 男が彼の左手を取ろうとした、その瞬間、タカシの右手をつかんでいるのと同じ細く白い腕が床から伸びて男の手を払った。
「おやおや、私に逆らおうと言うのですね」
 男の微笑が冷たく広がった。その刹那、男の方に向けて白い手が幾本も伸びた。と同時にタカシの身体にも伸びて巻きついてきた。
 彼は最初、少し驚いたが、右手首をつかんでいるその白い手の感触が優しく、柔らかく、温かく、安心感を抱くものだったので、更に数が増えても恐れを感じることはなかった。白い手は彼を部屋の奥へ奥へと誘っていた。彼はされるがままに身を委ねていた。確証はなかったが、その白い手からリサの存在を感じていたから。
 男が幾度も手刀を振っていた。その度に白い手が粉砕された。しかし白い手も後から後からその数を増やしていった。
 タカシは、すっかりその姿を白い手に包まれていた。そしてそのまま床の中へと沈んでいった。まるで凪さえない湖の中に沈んでいくように、ごく静かに。ただ沈み切る間際に、男の声が湖面に響き渡る水鳥の鳴き声のように、辺りの静寂を鋭く貫いた。
「仕方のない人たちだな、君たちは。私から逃れられると思わない方がいい。というか逃れてどうするのかね、凪瀬タカシ君。君は私の手の中にいるのだよ。君は僕のものなのだよ・・・」
 タカシは全身から倦怠感を覚えた。血が足りないせいなのか感覚が鈍い。少し休みたい、少し静かにしててくれ・・・
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