廃墟の中(6)

文字数 3,486文字

 タカシとアトリは、装飾もない無味な丸い石柱の陰に隠れた。
 円盤がどこまで選別して、どこまで襲撃の対象としているのか分からない。人だけが対象なのか、それとも動くものすべてが対象なのだろうか。黒猫は無事に逃げられただろうか、とタカシは息を整えながら思った。
 彼はこれからどうするか迷った。もっと建物の奥深くまで暗闇の中を逃げた方がよいのか、それとも襲撃者を視認しやすいように外に出た方がよいのか。
「ケガレは人の動きや息づかいやにおいなどに反応します。なるべくじっとしていた方がいいです」
 静寂の中、アトリの小声がホコリの舞う空気をかすかに震わせた。
「分かった」
 しばらくして呼吸が落ち着いた頃、判断材料ほしさに、現状を認識するために、タカシは柱から少しだけ顔を出して、自分が入ってきたエントランスの方を見た。
 目の前に円盤が浮いていた。
 気づかぬうちに出入り口から彼が身を寄せている柱までの間に、数えきれないほどの円盤が群れを成していた。彼らが動き出す時を待っているかのように、とても静かに浮かんでいた。
 驚きの声をアトリが発するのと同時に、タカシは反射的に目の前の円盤を手で払いのけた。その刹那、円盤は霧散した。ただの黒い霧となって振った手の方向へ力なく飛ばされた。そして彼は自覚した。自分のできることを、自分の力を。
 そのままの流れで身近にただよういくつかの円盤に、手のひらを押し出した。彼の手が当たる前にどの円盤も霧散した。
 先ほどまであった恐れ、得体のしれない物に襲われるかもしれない恐怖の反動から、彼は立て続けに周囲にただよう円盤のすべてに向かって腕を振り続けた。次々に黒い霧が発生した。
 円盤たちのなれの果てである黒い霧は、またたく間に濃度を上げ、出入り口から薄っすら入り込む外光のぼんやりとした明るさではすぐに太刀打ちできなくなっていった。
 彼の脳裏には、黒い霧が体内に入って絶命した少年の姿がこびりついていた。この黒い霧を吸ってはいけない、体内に取り入れてはいけない、そういう理性が暴れたがる激情を必死に抑制していた。彼はずっと息を止めて円盤に立ち向かっていた。
 そして、肺が限界を迎えた頃、タカシはアトリの腕をわしづかみにして、そのまま出入り口に向かって全力で走った。酸素の欠乏で脳の活動が鈍ったためか、円盤のなれの果ての黒い霧の濃度が上がったためか足元もはっきりと見えない、かろうじて出入り口方向がうっすら明るく見えるだけだった。
 二人は倒れ込みながら外に出て、一息吸った。しばらく荒い呼吸が続いた。タカシとしては、はっきりと確かめたわけではなかったが、感覚的に周囲にあった円盤はほぼ霧に変えていたはずだった。先ほどまで自分がいたビルを息を整えながら眺めた。出入り口から黒い霧が、ボヤでも起きているように、黒煙の如くモクモクと立ちのぼっていた。それは一筋に空に向かっていった。ちゃんと意思をもって一つところに向かうように間断なく空へ。
 どうやらもう自分の方には向かってきそうになかったし、もしまた遭遇しても対処の仕方が分かったので、彼はひとまず立ち上がり、アトリの無事を確認すると、再びリサのいる場所、地下を目指して道を歩きはじめた。

 主に大通りに沿って、たまに路地に入って、目指す方向に歩を進めた。命の危険を目前にしてショックを受けたのか、アトリはしばらく口数少なく、静かにタカシの後ろをついてきた。
 いくつかの路地を経て、ある横道に入った時、二人は視線の先に、横向きに倒れている人の姿を見つけた。駆け寄って声を掛けてみる。答えはない。タカシがその肩を持って仰向けにした。
 なんとも言えない苦悶の表情がべったりと貼り付いていた。
 それはとても濃厚で、一度見たら忘れられない表情だった。どんな画家もどんな彫刻家も、そのすべてを一度に表現するのは難しいだろう、負の感情に複雑に彩られた表情だった。見ているだけで不快な思いが胸に渦巻いてくる。
「僕のもう一人の仲間です」
 アトリが静かに言った。
「彼は僕たちの中で一番若く、明るくて、無邪気で誰からも愛される仲間でした。とても残念です」
 アトリは淡々と語った。そこに感情の色は見えなかった。タカシは何となく違和感を感じた。それを察してかアトリは言葉を続けた。
「僕たち“地底生まれ”は地上に出ると溶けてなくなる、と言われてきました。地下とは空気が違うから身体が耐えられないと。誰もそんなこと見たこともないのに、まことしやかに、何の科学的根拠もないのに信じられてきたんです。僕たちは、選ばれし方様を捜す、この計画が浮上した時、飛びつきました。その口実のもとに本当に僕たちが、地上に出ることができないのか確かめにきたんです。・・・僕たちは地上に来る前に最期の別れをしてきました。最初から死は覚悟の上だったんです。だから悲しいけど、仕方がない、予想の範囲内、と割り切ることができます。それより僕たちは溶けなかった。それを証明できた。それだけで彼らは満足だったと思います」
 そんなものだろうか、タカシは思わずにはいられなかった。彼らの行動は若さゆえの突発的、衝動的なものでしかないように思えたし、アトリが話す内容も自分が今、悲しみにひたらないための方便にしか聞こえなかった。
「命を懸けて証明したところでそれが何になるって言うんだ?命の使い道をそんな短絡的に決めるなんて、あまりにももったいない」
「短絡的ですって?僕たちは考えに考えて決めたんです。これは僕たち“地底生まれ”にとっては、とても重要な事なんです」
「生まれた場所がそんなに重要なのか。地上で生まれようと、地底で生まれようと人間に変わりはないだろう」
「それが、変わるんです。僕たちは同じ人間じゃない」
「どういうことだ?どう見たって君は人間だ。それでいいじゃないか」
「違うんです。僕たちは、人によって造られた、言うなれば人造人間なんです」
 突拍子のない話にタカシはとまどって相槌も忘れた。アトリは続けた。
「僕と同じ“地底生まれ”の多くは自分がお方様から生み出されたと思っています。それは半分正解で、半分間違いです。僕たちは首脳部の政策により、身体を造られ、お方様によって自我を与えられたのです。僕はそのことを知りました。自分の生まれた理由を知りました。でも生まれた意味が分からないんです。本当に首脳部の政策を遂行するためだけに生まれて、そして死んでいくだけの存在なのか、それとももっと別の意味があるのか。それを、僕は、知りたい・・・」
 アトリは急にしゃべりすぎたと自覚した。こんな無用な話までしてしまうとは、初めて来た地上と仲間の死に動揺してしまっているのだろうか。そう思ったが、すぐに違うと思った。
 眼前の選ばれし方様の姿を見ていると、そこに親友の姿が重なった。容姿も背の高さもまったく違う。しかしどことなく雰囲気が似ている。その人の言動や性格や生活そのものを規定する精神の根源のようなものに共通点が感じられた。
 その親友は生真面目だし、無駄に笑わないし、とにかく愛嬌がないので、あまり人に話し掛けられる方ではない。でも僕は何かすごく話しやすいと感じていた。だからよく話し掛けた。選ばれし方様にも同じような話しやすさを抱いてしまう。
「申し訳ありません。こんな話をしてしまって・・・。とにかく僕たちの所属するアントという団体は、地下世界の閉塞感にあらがい、お方様の望みに従い、地上世界への移住を最終的な目標として活動しています。でも御覧の通り地上にはケガレがいて、現時点で移住するのはかなり難しいのです。でも物語では、選ばれし方様がお方様を救いにやってきて、そしてみんなを地上へと導いてくれる、ということになっているのです。我々はその物語に一縷の望みをかけて、あなたを捜しにきたのです」
 タカシは、この少年の言動といい、自分の身を守った不思議な力といい、この世界で自分は特別な存在であることは間違いないと確信した。現実世界で、リサの一番の理解者だと自負する彼にとっては、リサの自我の中で彼が特別視されることは納得がいく。しかしこの世界の異常さに加えて、彼に対してこの世界が期待することがあまりにも分かりづらくて不快だった。いったいどうすればいいと言うんだろう?
「物語?」
「ええ、物語です。僕の世界に住む人ならみんな知っている物語です」
 アトリは静かに淡々とその物語を語りはじめた。
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