蠢動の中(2)

文字数 3,045文字

 委員が目を覚ました時、彼はビルの尖塔の先にいた。
 尖塔の突端が彼の上着に刺さっている。腕も足も全身ぶら下がっている状態だった。
「早めに目を覚ましてくれてありがたいわ。話せるのなら、私の質問に答えてもらいたいんだけど」
 委員が正面に視線を上げると暗がりに一人の女性の姿がボウと浮かび上がっていた。どう見ても空中に浮いているようにしか見えない。
 訳が分からない、自分が意識を失っていたのは分かるが、それがなぜなのか、そもそもなぜこんな所にいるのか、これがどういう状況なのか、なぜこの女性は空中に浮いているのか。どれだけ考えても答えが出そうにない。おまけに頭が割れるように痛い。とにかく自分の思考の範疇を、逸脱した現状でしかない。
「あなたたちは、高い塀に囲まれた施設から出てきたけど、あの施設は何の施設で、あなたたちは何をしていたの?」
 目の前の女性は、少し自分より高い位置に浮いている。ごくごく冷たい視線で見下ろされている。何とも異常な状態に、思考がうまく回らず委員は答えに窮していた。
「話せないなら、あなたに用はないわね」
 そう言い終わると、目の前の女性はどこかに飛んでいこうとした。委員は慌てた。こんな状況で一人で取り残されても、自分ではどうしようもない。
「ま、ま、待ってくれ。俺を助けてくれ」
 女性は元の場所に戻ってきて言った。
「私の質問に答えたら、考えてあげてもいいわ。ただしあなたの服がいつまでもつか分からないから、あまり時間を掛けない方が自分のためよ」
 ナミは、言い終わると同時に、チラリと下に視線を向けた。委員もつられて下を見た。暗い中ではあったが、自分が地表より遥か高くに吊るされていることがいやでも分かった。全身の穴という穴が委縮していた。
「わ、わ、分かった。何でも答える。早く質問してくれ」
「さっきも言ったでしょ。あなたたちが出てきたあの施設は何?あなたたちは何をしていたの?」
「あそこは拘置所だ。俺たちは拘置所周辺の警備をしていた」
 あたしの契約者は拘置所に収容されていたのね。まったく何やってんのかしら。
「そこに凪瀬タカシって男が収容されているわ。その男は何をしたの?」
「凪瀬タカシ?誰のことか分からない」
「この世界では選ばれし方とも呼ばれているみたいね」
「ああ、その男なら、審判の場で外患誘致罪を言い渡された」
 ナミは内心、思いも掛けない返答に、一瞬戸惑った。しかしすぐに気を取り直して質問を続けた。
「いったい何の理由でそんな罪に問われたの?」
「よくは分からないが、ケガレをこの国に引き連れてきたらしい。そのために五十名ほどの兵士がほぼ全滅したって話だ」
 自分がいない少しの間に、状況は著しく悪い方向に進んでしまったらしい。
「どんな刑が言い渡されたの?」
「それは、深層牢獄への収監だ」
「深層牢獄?」
「地下深くにある牢獄だ。噂では、そこに収監されたらもう二度と、戻ってこられないと言われている」
「それで、いつ選ばれし方は移送されるの?」
「それは・・・」
 ナミは静かに振り返り、すうっと遠ざかって行った。
「ま、待て、待ってくれ。六時からだ。六時に拘置所を出発することになっている」
 ナミはまた振り返って元の場所に戻ってきた。そしてジッと冷たい視線を委員に注いだ。六時か、もうすぐね、と思いながら。
「それで、あなたたちは移送と警備を受け持っているってことね」
「そうだ」
「私はあなたを信用していいのよね。もし間違いがあれば今のうちに訂正しておいた方がいいわよ」
 そう言われてほんの一瞬、委員の目が泳いだ。それを見てナミが再び振り返って遠ざかり掛けた。
「ど、ど、どこへ行くんだ。待ってくれ」
 ナミは振り返って言った。
「もうすぐ六時だから、確かめに行ってくるわ。本当に選ばれし方がその時間に移送されているようだったら、また戻ってくるわ。もしその時間に選ばれし方が姿を現わさなかったら、私は二度とこの場所には戻らない。あなたは自分の服が朝まで耐えて、誰かが自分のことを見つけて、うまく救出してくれることを祈っていればいいわ」
 委員はただ狼狽した。一刻でも早くこの状況を脱したいのに、もしかしたら見捨てられる可能性も出てきた。今、ここからこの女性を行かせてはいけない。
「すまない。間違いがある。訂正させてくれ」
 ナミはまた元の位置に戻ってきた。腕を組み、やや顎を上げ、先ほどよりも更に冷たい視線を向けて。
「これが最後のチャンスよ。私には時間がないし、元から気が長い方ではないの」
「分かった。気をつける」
 委員は一度、唾を呑み込んで、慎重に話しはじめた。
「六時から移送されるのは偽物だ。本物が移送されるのは、その後だ」
「偽物?なぜそんなことをするの?」
「アントの残党が、選ばれし方の奪還を目論んでいる。我々はその情報を掴んでいる。よって本来、予定されていた時間に偽物を移送し、我々は待ち構えて奴らを一網打尽にする計画なんだ」
「アント?」
「反政府組織だ。この国を崩壊させて、地上への移住を計っている危険思想に毒された奴らの集まりだ」
「そう、それにしても、凝ったことをするわね。そんな情報があるなら事前に根城に踏み込んだらいいんじゃないの?」
「いや、あいつらは至る所に入り込んでいて、それを一人々々特定していくのは困難だ。それに今回は、やつらの中に一人の兵士が加わる可能性もあるらしい。事前に摘発してしまうと、その兵士の罪を問えなくなってしまうから、実際に合流するまで待つことになったらしい」
「一人の兵士のために?」
「ああ、何やら特殊な能力を持っていて、アントの連中にとっては希望の星なんだそうだ。だから首脳部としては、どうしても捕縛もしくは射殺したいらしい」
 ナミは何か気になる感覚に襲われた。だから訊いた。
「その兵士の名は?」
「確か、イカルとか言ったような気がする」
 ああ、あのコね。ナミはタカシと自分を案内していた少年の顔を思い出した。あのコは、けっこう協力的だったわね。なかなか頭もいいみたいだし、助けられたらきっと力になってくれそうだわ。
「あと、本物の選ばれし方は何時に移送予定なの?」
「それは・・・」
 今度は振り返らずに、ナミは後ろに遠ざかっていった。委員は思わず、待ってくれ、と言いつつ右手を伸ばした。その途端に背後でビリッという服の裂ける音が聞こえた。委員はヒッと叫び声を上げた。
「言ったわよね。私、気が短いの。これが本当に最後のチャンスよ。何時?」
 委員の背後で、服の裂ける音が続いた。委員は恐怖に押し潰されそうになりつつ、発狂しそうな自分をかろうじて理性で抑えつけていた。しかしそれも急速に限界に達しようとしていた。
「八時です。アントの連中の抵抗が収まっていれば、八時に移送する予定です!」
 そう言い終わった時、ひときわ大きく長く服の裂ける音が闇を揺らした。
 ヒャー!と叫びつつ委員は落ちていった。一度、急勾配な屋根に落ちて滑ってから、またすぐ宙に舞った。たちまち地面が迫った、もう、すぐ、そこまで。
 ナミは急降下して委員に追いつき、その服を両手で掴むとその場で停止した。もう地面ギリギリの高さだった。ナミは両手を開いた。ドサッと委員の身体が地面に落ちた。気絶していた。
 委員をその場に残し、ナミは浮上して、そのまま飛んでいった。
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