忘我の中(5)

文字数 5,897文字

“やって来た”
 山崎リサは白い塔の中でそう感じた。
 私の黒い感情が、私を見つけて、ここまでやって来ている。
 今まで見つからないように、大人しく目立たないようにしてきたけど、やっぱり、さっき力を使ってしまったから、見つかったのね。
 怖い、呑み込まれてしまう。また昔のように黒い感情が、私をおおいつくそうとする。私にできることはない。耐え忍ぶだけ。そのドロドロとした感情の中でただ息を殺して耐え忍ぶだけ。
 ああ、取り囲まれる。黒い感情が私の周りに渦巻いていく・・・
「ダメです。負けないで!」
 イカルは思わず叫んでいた。自分の周りを囲んでいる白い(まゆ)のようなものからお方様の情動が伝わってくる。その切迫した感情が、ひしひしと彼の中に流れ込んでくる。
 周囲の白い繭の密度が上がっている気がする。次第にかたくなに固まっていこうとしている。ただひたすらに外からの影響を除外し、内側だけの世界に没頭しようとしている。ただ内側だけに指向していく、縮こまっていく、矮小になっていく。
「お方様、ケガレに負けないでください。どうかそのお力で、ケガレを克服してください。どうか僕たちをお救いください」
 何の反応もない。繭は更に固く密度を増していく。
 イカルは歯を喰いしばった。自分の無力が情けなかった。お方様がケガレに呑み込まれてしまえばこの世界は終わる。どんなに望んでも、どんなにあらがっても自分には何もできない。誰も救えない。状況をただ傍観することしかできない。
 次第に意識が薄くなっていくのを感じた。繭の中の空間も、次第に狭くなっている。命の終わりが近づいている、ただ、そう感じる。
 けっきょく何のために自分は生まれてきたのだろう。何をしたわけでもない、何かを生み出したわけでもない。誰かを救うこともできなかった。地底生まれと蔑まれ、閉塞感の中で、ただ日々を漫然とすごしてきただけだ。何て無駄な命だったんだ。せめて仲間たちのためにこの命を使いたかった。せめてツグミだけでも助けてやりたかった・・・
 諦観。自分が無力だからあきらめることしかできない。ツグミ・・・。最期に一目会いたかった。最期にもう一度抱きしめたかった。
 ・・・最期に、ツグミに、会いたい。
 その時、遠くから声が聞こえてきたような気がした。最初は気のせいかと思ったが、その声は次第に近づいてきていた。
「・・・イカル・・・・・イカル・・・・・・・イカル!」
 それは間違えようのない声だった。毎日、くり返し聴いていた声だった。自分の、ささやかな幸福に包まれた生活に、けっして欠かすことができない声だった。
「ツグミ?」
「イカル、やっぱりこの中だったのね。良かった。見つかって良かった」
 ツグミは、巨大な繭に身体を貼り付かせるようにくっついて話していた。
「何で、お前、こんな所にいるんだ?どうやって?」
「何でって、あなたの隣はあたしの場所なの。あなたがいる所にあたしはいるの。あなたが引きこもるって言うんなら、あたしも一緒に引きこもるのよ」
 通常運転のツグミだった。イカルはとてもあたたかく安らいだ気持ちを感じた。
「ツグミ」
「何?」
「ありがとう」
「な、何?改まって」
「いや、今まで言った事なかったなと思って」
「いいの。あたしが好きでやっていることだから。あたしがしたいだけだから」
「ツグミ、今まで本当にありがとう」
 イカルの声はいつも通りに落ち着いていた。でも、何かおかしな雰囲気を感じた。何か嫌な予感が胸の中ににじみ出てくる。
「もういい。そんなこと言わないで」
 少し間が空いた。その時の刻みが、重く彼女の心にのし掛かってくる。
「ツグミ、お別れだ。みんなの所にもどれ。そして、きっと・・・きっと生き残れ。・・・さあ、行け。行ってくれ、班長命令だ」

 コリンとその分身たちは腰を低くして身構えた。
 自分たちの司令官はどこかに行ってしまい、ケガレの襲撃もはじまり、おまけに新しい襲撃者までやってきた。状況はどう考えてもジリ貧だった。しかしその分、気分は高まっていた。今まで自分の力を尽くす場を持たず、鬱屈とした日々をすごすばかりだった。それが今は命を懸けるほどの状況が目前にある。今までの境遇への怒りが体内に渦巻いて高揚していく。自分がどれだけでも獰猛になれそうな気がする。
 ノスリ班は急速にコガレたちの群れに近づいていった。そして、近づけば近づくほど、その場の状況に戦慄を覚えざるを得なかった。
 何かの肉片やら体液やら、そこら辺中に広範囲に飛び散っている。無数の濃いピンク色とオレンジ色の混ざった小さななまめかしい球体がいたる所に転がっている。そういった場景に気を取られながら走っていると班員の何人かが突如、ぬかるみにはまったような感覚を足元に感じた。見てみると真っ黒い色をした粘り気のある液体が水溜まりのように存在していた。それは靴底にべったりとへばりついていた。しかし他の班員が先に進んでいたので、兵士たちはそれ以上、気にすることもなくそのまま走っていった。
 やがて、ノスリたちは、小さな黒い生き物が自分たちの行く手を阻んでいる場所にたどり着いた。その奥に選ばれし方が立っている。更にその横にはツグミが座り込んでいる。そのかたわらに横たわるのは、イカルか?
 どうなっている?とにかくイカルに何かあったのは確からしい。またあの男のせいか。とりあえず目の前の黒い生き物を排除して、あの男を捕縛しないと。ノスリはすぐさま攻撃命令を発しようとした。
「先輩!」
 アビがそう叫びながら、ノスリの横を追い越していこうとした。コリンたちが威嚇の声を上げた。
「バカ、下がれ。襲われるぞ」ノスリがあわてて制止した。
 タカシは、襲い掛かってきた黒蛇を霧散させて、背後の喧騒に向きを変えた。そこにはあの審判の場で、自分に不利な証言をした男とイカル班の見覚えのある連中が、コガレたちと対峙している。タカシはとっさにコリンたちの後ろに走り寄った。
「銃を下ろせ。この黒い生き物はツグミの仲間だ。俺たちの味方だ」
 タカシはノスリたちにそう言うと、続けて下を向いた。
「君たちも、この兵士たちはツグミやイカルの仲間だ。大丈夫、悪いようにはしないと思う。警戒を解くんだ」
 ノスリは銃を下ろしていなかった。だからコリンたちも警戒を解けなかった。
「おい、お前、イカルに何をした。これはどういう状況なんだ。なんでこんな所にケガレがいるんだ?やっぱりお前がケガレを呼んだんだろ」
 ノスリの敵対心に凝り固まった視線が、こちらを凝視している。
「違う。俺が呼んだんじゃない。そもそも俺が呼んだのなら、なんで俺が襲われているんだ」
 そう言うタカシの頭上に、黒蛇が一匹襲いかかってきた。その頃にはケガレを迎撃しつつもエナガ班、イスカ班がノスリ班の後方に合流していた。その合流したてのイスカが発砲してその黒蛇を霧散させた。
「とにかくお前を連行する。言いたいことがあれば、牢獄の中で心置きなく言えばいい。それだけの時間はたっぷりあるだろう」
 そう言いながらノスリは目の前のコリンに銃口と視線を向けた。二人の視線が激しくぶつかった。先ずはこいつらを排除する。
 待ってくれ、そうタカシが声を上げようとした時だった。周囲を圧するほどの大音声が響き渡った。
「道をあけよ!」
 ツグミとイカルを除いて、そこにいた全員が声のした方向に視線を移した。
 その方向だけ時間が止まっているようだった。全てのものが道をふさぐことを恐れて退いているようだった。その道を一人の男が歩いてきていた。背筋を伸ばし、ただ前だけを、タカシの姿だけを見詰めて、一歩一歩靴音を鳴らしながら歩を進めていた。
 黒い山高帽に黒い夜会服、それに傷一つなく黒光りする革靴。それが以前会ったルイス・バーネットの姿だとタカシにはすぐに分かった。
“よりによって何でこんな時に”
 ナミもおらず、ケガレに襲われ、捕縛もされかけているこの状況を更に悪化させることが予想される人物の登場、もう何をどうすればいいのか、頭の中は整理も追いつかない状況でしかない。
「誰だ、お前」
 エナガの声に合わせて、兵士たちはHKIー500の銃口を男に向けた。この状況である。みんな気が立っている。異変があればすぐに引き金を引きそうな雰囲気だった。
「動くな!」
 ルイス・バーネットは右手のひらを彼らに向けて一喝した。とたんに兵士たちの身体が動かなくなった。おまけに頭上のケガレもピタリと動きを止めた。
 ルイス・バーネットは兵士たちには、もう一瞥もくれず、タカシの前までまっすぐ歩を進めた。
「またもや七十三番の姿がないようですな。最近はお会いすることもなかったので、たまにはお会いしたかったのですが、仕方ありませんね。それはそうと、いやはや大変な目に遭いましたよ。あなたの彼女はなかなか強情で、いくら説得しようとしても、私の拘束を解くことをやめず、今の今までずっと監禁状態でしたよ。私も長く人々の魂を行き来しておりますが、こんな経験は初めてですよ。貴重な体験ではありましたが、これ以上はごめんこうむりたいですな。何と言っても服に皺が寄ってしまって困りますからな。とはいえ、あなたの彼女、この自我の主は自らの負の感情に呑まれてしまったようですな。自らの感情に支配されるとは人間とは何と愚かな存在でしょう。そんな愚かな存在が、私を拘束するとは、何という身の程知らず、何とも愚昧であるとしか言いようがありませんな」
 リサのことを悪し様に言う、目の前の男に不快感を抱いた。そして警戒心が全身を全速力で走り回っていた。どうにかこの男から離れないと大変な事態に見舞われそうな気がした。
「俺はあなたに用はない。だから俺のことは構わないでくれ」
 今の今まで男の顔にたたえられていた微笑が消えた。ただ冷たい視線を彼に向けていた。
「そちらに用はなくても、こちらには重要な用があるのですよ。あなた方は私の説得に応じなかったばかりか業務を妨害までした。これはけっして許されることではないのですよ。それ相応に贖罪を負ってもらわねばならない。そこで私は監禁されていた間、ずっと考えていたのです。どんな罰があなたたちにお似合いか、そして私の業務に最適な結果をもたらすのか」
 男の顔に再び微笑が浮かんだ。自分の言葉に酔っている、そんな微笑みだった。
「それにはこうすれば良いのですよ」
 男は斜に構えていた身体を彼に正対させ、微笑を消し、じっと睨みすえながら口を開いた。
「我が言の葉に寄り給える御霊(みたま)の力により、我が唱えし(ことば)(なんじ)現実(うつつ)と成る。汝は、その記憶をたどり、山崎リサに関する一切の事柄を忘却の彼方に流しやれ。その名、その声、その姿さえ、今後一切、思い出してはならない。汝は、この言葉にあらがうことなく、現実にせよ!」
 一瞬にして、タカシの五感のすべてが知覚を止めた。
 ただ、脳裏にトンネル状にずっと先まで伸びる空間があった。白と黒が混ざり合い、しかしけっして溶け合わずに渦巻いている。
 周囲の白黒の場景が凄まじい速さで後方へと流れはじめた。遥か彼方から向かってきて次々に彼の横を通りすぎていく。
 やがて、その白黒のマーブル模様の中に、彼の、かつて見た場景が混じっていることに気がついた。一つ、二つ、三つ、四つ・・・、次々に彼の後方へと追いやられていく。その場景のすべてにリサの姿があった。
 彼はあわてて腕を伸ばした。振り返り、身体の向きを巡らす。身体が重い。身体の各部に意思がうまく伝わらない。足元はマーブル模様に埋まって、抜け出すことは困難だった。それでも彼は追った。次々に彼方へ消えていくリサの記憶を必死の形相で、ただそれだけを見て追った。
「やめろー!」
 彼は突然叫び、そして戻ってきた。目の前にルイス・バーネットの姿があった。
 タカシは両手で頭を抱えて、彼の頭の中を過ぎ去っていったリサの記憶を一つ一つ思い出した。すべて覚えていた。かけ替えのない記憶のすべては彼の脳裏に確かに存在したままだった。
「驚いた。私の言霊が破られるとは。さすがに、いきなりすべてを忘れさせるのは性急すぎたかな。しかし、どうやら私は君の精神力をあなどっていたようだ。抵抗があるだろうとは思っていたが、まさか一気に言霊の縛りを解いてしまうとは」
 タカシは両手を下ろして男と正対した。そして無遠慮に感情むき出しの視線を向けた。
「もう俺に関わるのはやめろ。ほっといてくれ」
 男の微笑が大きくなったように見えた。
「面白い。本当に君は面白いな。益々君に興味が湧いたよ。以前にも言ったけど、私は君の守護霊であり、送り霊なのだよ。だから文字通り君が死ぬまで君とは関わらないといけないんだ。実際には死んでからも少し関わるんだけどね。まぁ腐れ縁だと思ってあきらめてくれたまえ」
 目の前の斜に構えた男の存在をどうにかしないといけない。それは分かるのだが、どうしたらいいのかが分からない。何とか逃れることができたが、先ほどのような脳内への攻撃に対し、再度耐えることができるのか、逃れることができるのか、自信はない。かと言って対抗する力も彼にはない、いくら考えても堂々巡りでしかない。だからここは説得するしかない。
「俺はナミと契約を交わした」
「契約?」
 男の微笑みが消えた。
「俺がリサの命を救えたら、俺の魂をナミにやる、そういう契約だ」
 男の目が山高帽の漆黒のつばの下で大きく見開かれた。
「お前、アザミと契約したのか?」
 突然、男の口調が変わった。アザミ?
「何てことだ、あいつ、勝手に、俺に、何の相談もなく」
 男は彼から目をそらした。舌打ちをする音が聞こえた。ふと苦虫を噛み潰したような表情をした。
 タカシは自分が何となく発した一言が、思いのほか相手の動揺を誘っている様子を見て、突破口を見出したかもしれない期待とこれをきっかけに状況が容赦なく悪化してしまうかもしれない不安を、ない交ぜに抱えながら口を開いた。
「そういうことだから今のところ、俺が死んだら魂はナミのものってことになっている。だから悪いけど俺の事はあきらめてくれ。それからアザミって・・・」
 男が視線を再び彼に向けた。これまでにない冷たい視線だった。
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