忘我の中(6)

文字数 6,262文字

「そんなことは認められないな。そんな勝手は許されない。何かの間違いだ。アザミだってそんなことを望んではいるはずがない。だから私は今まで通り、いや尚一層、君をあるべき場所に戻すことにした。君の山崎リサへの未練を断ち切って、この世界から君を救い出す。君もきっといつか分かるはずだ。私の行いが君のためだってことを。君にとってそれが一番いい選択だったということが。さぁもう抵抗はやめて、私の言葉に大人しく従うんだ。いいね」
 男は彼に正対して、右腕を伸ばし手のひらを向けた。
 周囲のケガレがざわつきはじめていた。ノスリたち兵士の身体がかすかに揺れはじめた。
「お前の言うことなど聞く気はない!俺の魂はナミのものだ。お前との関係は解消だ。とっとと俺の目の前から消え失せろ!」唇も動きづらかったがタカシは何とか声を発していた。
「動くな!」
 男の一喝によって、タカシはもちろん、兵士たちや周囲のケガレたちも二次元の産物のように再度、動きを止めた。空気の流れさえもその動きを止めたようだった。
「安心したまえ、命じただけだ。言霊と違ってそのうち動けるようになるよ。さて、何度も言うように、君の魂を私が送ることは既定路線なのだよ。君や、ア・・七十三番が勝手に変更しようとしてもそれは私が認めない。いいかい。先ほど君は、山崎リサの命を現実世界で救うことができたら、七十三番に君の魂を譲渡する、というようなことを言ったね。だったら山崎リサの命を君が救えなかったら契約自体成立しないってことだね。ではその路線で行こうじゃないか。君はその方針に従って動いてくれたまえ」
 タカシは何とか身体を動かそうとした。しかし全身がすくんで動けない。男が何をするつもりなのか分からない。不安と恐れが脳裏を駆け巡っている。
「そんなに怖がらなくても大丈夫だよ。少し君の記憶の角度を変えるだけだ。記憶を消すことは難しいが、記憶を操作するのは容易いものだ。記憶はそのままに、その記憶に対する印象を変えることなんて、足の爪を切るより容易いのだよ。なぜって人なんてものは何かのきっかけで、すぐに楽しかった記憶が悲しい記憶になってしまうだろう。一つの記憶も見る角度が変われば色も変わるし、その影も見えてくるのだよ。だから君の、山崎リサとの思い出の角度を、少しだけ変えさせてもらうよ」
 正対したルイス・バーネットの目から、彼の胸の奥底まで見透かすような、感情の欠片も含まれていなさそうな視線が向けられた。そして白い手袋に包まれた右の手のひらが差し出された。
「我が言の葉に寄り給える御霊の力により、我が唱えし(ことば)(なんじ)現実(うつつ)と成る。汝の、山崎リサに関する記憶と存在に対する情動を、ここに新たに規定する。好悪は互いに所を替え、愛おしきは憎しみに、喜びは怒りに場所を譲り、愉楽は悲哀に姿を変える。愛とは打算であると知り、すべては一時の感情の誤りであると認識する。汝は覚醒し、これまでの山崎リサに対する感情のすべてがまやかしであると知り、そのすべてを振り払い、決別を望む者となれ」

 ノスリは歯がゆくって仕方がなかった。また自分の意思を無視して周囲が変化していこうとする。自分は無力でそれをさえぎることはおろか抗議の声を上げることさえできない。地団駄を踏みたい、髪を掻きむしりたい、でも身体がピクリとも動かない。
 意識ははっきりとしている。思考は不自由なくできる。でも身体が動かない。せめて指先だけでも動けば、ノスリはそう思った。HKIー500の銃口は視線の先の伊達男にピタリと向けられていた。そのまま動けないでいる。指先さえ動けばあの男を撃つことができる。
 二人の話の内容ははっきり言ってよく分からない。しかし伊達男が選ばれし方を連れて行こうとしていることは何となく分かった。それはとうてい承服できない。あいつは仲間の仇なんだ、俺が手を下さないといけない。
 ノスリの脳裏には、ケガレに襲われて次々に倒れていった仲間たちの姿が浮かび上がっていた。自分たちに銃口を向けるウトウ隊長の姿やミサゴの最期の姿もあった。
 俺が無力だったから、みんな死んだ。俺がどうにかしないと。ノスリは目を閉じてただ指に集中した。他の一切のことを遮断して、ただ指が動くこと、それだけを念じ続けた。

 色々な記憶が頭の中を埋め尽くしていた。色んな色がそこにはあった。
 明るくあたたかな無数の色たち。そのすべてにリサの姿があった。
 喜ばしく楽しい記憶。
 少しずつ、少しずつ、色あせていく。
 次第々々にゆがんでいく。
 すべての色合いが冷たくなっていく。
 リサの笑い顔がゆがむ、次第に醜悪な顔つきになっていく。
“これはリサじゃない、誰だ。これは誰なんだ”
 タカシは身動きが取れないまま混乱していた。自分の頭の中が自分の意思とは無関係に動き回っている。止めようと思っても止められない。何がどうなっているのか、何をどうしたらいいのか、分からない。分からないままに混乱していた。
「それは山崎リサですよ。いい加減、目を背けずに直視しましょう。今まであなたが目を背けてきた愛しの山崎リサの本当の姿です。もちろん、人間には誰しも良い面と悪い面があります。山崎リサにも当然、良い面もあることでしょう。しかし恋は盲目とはよく言ったもので、あなたには今まで山崎リサの悪い面が見えていなかった。いえ、見ようとしなかった。つまり今まであなたが見ていた山崎リサという女性は、本物の彼女ではなかったのです。あなたの頭の中で作り上げた理想の女性、そういうただの幻想でしかなかったのです。そんな彼女から贈られていると思っていた愛も当然、幻想。そんな彼女にあなたが注いできた愛も、もちろん幻想。結局は、あなたたちが愛だと思っていたものは、ただの、まやかし、偽物、まがい物でしかないのです。彼女はただ、自分の寂しさを紛らわすためにあなたを利用した。別にあなたでなくても良かったんです。他の誰でも。いいタイミングであなたがいた、ただそれだけの仲なんです」
 ルイス・バーネットの声が頭の中でこだまする。
 益々リサの笑顔が醜悪にゆがんでいく。
 気づけば頭の中の全方位が醜悪な笑顔で埋まっていた。
 声が聞こえる。
 低く抑えた笑い声。甲高い笑い声。
 嘲笑、冷笑、失笑、憫笑。
 幾重にも重なって鼓膜を圧している。
 彼の心を押さえつける。
 彼の心は急速に矮小化していく。
 今まで育んできた心の豊かさ、ぬくもり、そんなものが次々に縮こまって枯れていく。散り散りになって消えていく。今まであんなに大切に思っていた一つ一つの記憶が、ふれることさえためらわれるほどの嫌悪感を伴っていく。
“やめろ、やめてくれ!”
 彼の心は思わず叫んでいた。もう耐えられない。もう直視できない。もう聞いていられない。醜悪な記憶のすべてを捨て去りたかった。
 頭の中に貼りついていた記憶の数々が次第に渦となり、混ざり合いはじめた。色んな色が混ざって濃い色になっていく。暗くお世辞にもキレイとは言えない色になっていく。
 やがて、すべての色を呑み込んで、真っ黒になった。
 彼の心の中はただ、黒い空洞になった。
 奥底から冷たい風が吹きつけてくる。
 ふれればすぐさま皮膚がひび割れてしまいそうな、冷たく乾いた風。
 彼は寒さに、心細さに身を縮める。
 自らの肩を抱き、目を固くつぶり、寒さに耐えながら身を縮める。
「さぁ、帰りましょう。ここにいればつらいだけです。大丈夫、元に戻りさえすれば、きっと新しい幸せがあなたのもとに訪れてきますよ。人生、別れがあるから出会いもあるんです。さぁ、私と一緒に行きましょう」
 ルイス・バーネットがにこやかな笑顔を彼に向けながら手を差し出した。タカシはまだ動けなかった。その手を取ろうとルイス・バーネットは更に手を伸ばした。
 その伸ばした腕が突然、光って破裂した。
 爆風によってルイス・バーネットもタカシも、それぞれ後方に飛ばされた。
 ルイス・バーネットは後ろに倒れながらとっさに左腕を見た。二の腕の中ほどから先が無くなっていた。
 苦悶の叫びをルイス・バーネットは発した。叫びながら弾が飛んできたであろう方向に視線を向けた。ノスリがHKIー500を構えたまま立っていた。
「バカな、まだ動けるはずがない」
 うめくように声に出した。兵士たちの身体がピクリと動いた。
“まずい、縛りが解けかかっている”
 負傷した腕を見た。白い気体が流れ出していた。
“霊気が漏れている。くそ、霊力が下がって、縛りが利かなくなっているのか”
 兵士たちを見る。自分を撃った兵士が、自分に向かって走り出そうと身構えている。ルイス・バーネットは気力を振り絞って立ち上がり、首から下げたネックレスに残った手でふれた。
「アナ、すぐ帰還する。負傷している。治療の準備をしていてくれ」
 ノスリは、少しずつ感覚が戻ってくる身体に焦れた。早くしろ、今ならあいつを捕まえられる。ようやくつま先を動かすことができた。足を一歩進める。二歩目からは早かった。ノスリは走った。HKIー500を充填しながらルイス・バーネットのもとまで一気に駆けた。相手の目の前までたどり着いた。銃を構えた。充填が終わった。
 その瞬間、ルイス・バーネットの姿は消えた。
 ノスリは舌打ちをして、銃を下ろした。
“まあいい。この男を連れていかれずに済んだ”
 ノスリはタカシに視線を向けた。
 そこには、横向きに地面に倒れているタカシの姿があった。静かに、ただ静かにジッと身じろぎもせず、そこに存在していた。
「おい、どうした。お前、大丈夫か」
 ノスリの声にもタカシは無反応だった。まるで何かの抜け殻のよう。生きているようには見えるが、魂のない、ただの放心状態にしか見えなかった。
 後方から足音が聞こえた。他の兵士たちが動きはじめたようだった。周囲から安堵の声がちらほらと聞こえた。
 すぐに、ノスリの横にイスカがきて並び立った。
「どうしたんだ?」
 イスカが短く訊いた。ノスリも短く答えた。
「分からない」
「おい、何だこいつら。ツグミ、おい、何か言えよ。おい、イカル、大丈夫か、イカル」
 エナガがツグミたちに近寄りかけた所でコガレに威嚇されていた。
「おい、ツグミ、イカル、大丈夫か」
 ノスリも、ツグミとイカルの方に走り寄って声を掛けた。
 イカルは横たわったままピクリとも動かない。ツグミも、座った姿勢でイカルの手を額にあてたまま、ピクリとも動かない。そこに何の意思も思考も感情も、命さえもないかのように二人は同じ姿勢のままだった。二人の周囲を時間だけがゆるやかにすぎていく。
「ツグミ、イカル、答えろ」
「どうしたんだよ。イカル、起きろよ。ツグミ、何か言えよ」
 ノスリもエナガもコガレがいるために二人に近づけず、ただ声を掛けた。

「ほら、みんなが呼んでいるぞ。早く行け」
 イカルの声が優しく響いた。そう、いつもそう。イカルはいつもあたしのことを考えてくれる。あたしがするべきことを、あたしがしないといけないことを、ちゃんと教えてくれる。
「いやよ、イカルを置いていけない。イカルがここにいるなら、あたしもここに残る」
 それ以外考えられない。イカルと一緒にいる、あたしが望むのはそれだけ。生死なんて関係ない。一緒にいられれば、それでいいの。
「ダメだ。たぶん、俺はもうそんなに長くはもたない。自分の意識が、存在が、だんだん薄くなっていくのを感じる。それにすごく眠いんだ。もうすぐ消えてしまう。だから、俺のことは忘れて、お前はみんなと一緒に行くんだ」
「いや、いや、いや。あたしを一人にしないで。お願いだから一緒にいさせて」
 心が叫んでいた。彼女の全身が、その血を吐くような叫びに共鳴していた。これだけは何を言われても聞かない。これだけは譲れない。
「駄々っ子かよ。お前も言い出したら聞かないからな。でも、俺が消えたら、きっとお前の意識も戻れなくなる。そんな気がするんだ。だから・・・」
「いやー!いやって言ったらいやなの。何て言われても絶対どこへも行かない。行かないから!」
 ツグミからは見えないが、イカルが苦笑しているのが分かった。そんな雰囲気が周囲を包んでいた。
「ツグミ、俺はお前が好きだ」
 ツグミの動きが止まった。何を、急に、言い出すの?
「好きだから。お前を死なせたくないんだ」
 イカルの声は次第に細くなっていく。ツグミには優しすぎる声に思えた。
「この(まゆ)みたいなものは、たぶんお方様の心の一部なんだと思う。この中にいるとこの世界のいろんなものにつながっている気がする。この世界のいろんなことが自然と分かる気がするんだ」
 イカルの声が耳に入るたびに、涙が新たに生まれていく。尽きることなく、こんこんと湧き出る泉のように。
「俺は死ぬ。そしてお前はここにいてはいけない。お前まで死ぬことはない。みんなの所に戻って、生きてほしいんだ」
 ツグミは目を閉じた。優しい声に心が折れそうになる。イカルの思いに従い、哀しみを振り払って、辛い現実に背を向けてしまいそうになる。
 でも、もし、可能性がかすかにでもあるのなら、あがきたい。自分のすべてを懸けてでもそれを追い求めていきたい。
「そんなこと言わないで。あたしが望むのは、あなたを助けることよ」
 ツグミは目を開いた。
「何か、手はないの?不確かなことでもいいわ。何か、あなたをその繭から出す手立てがないの?」
 ジッと繭を、繭の中のイカルを見つめた。
 少しの静寂が二人の間を流れた。おそらくイカルが語ることを迷っているのだろう。迷っているということは何か手があるのかも知れない。そう思って、ツグミはただ黙って、イカルの声を待っていた。
「・・・お方様の心はケガレに会って萎縮してしまった。恐れて縮こまり、不安にさいなまれ、思考は混乱した。だからこんな片隅に引きこもってしまった。今、この世界、この都市中がケガレで充満している。だからお方様の心は引きこもって出てこられないんだ。この心を解くにはたぶん、お方様の心を開いて、その本体に表に出てもらう必要がある。でも、ケガレだらけの現状でそんなことは・・・」
 ツグミの目に力が宿っていた。絶望的な状況下で活路を見出した者のみに宿る目の輝きがそこにはあった。
「分かったわ。お方様に会ってくる。説得して、聞いてもらえなかったら、力づくででも外出してもらうわ」
 ツグミは立ち上がった。そして右腕の袖で、目の下に残っていた涙をぬぐった。
「おい、ちょっと待て。おま・・・」
 イカルの制止しようとする声に重ねて、ツグミは言った。
「イカル、あたしもあなたのことが好き」
 イカルの声が急停止した。ツグミが続けた。
「好きだから、何があっても、何をしても、あなたを助ける。誰もそれを邪魔することはできない。例えあなたであっても」
 少しの間が空いた後、またイカルが苦笑したような気がした。
「分かったよ、ツグミ。でも無理はするな。お願いだから」
「うん。イカル、あたしがいない間、ひとりで寂しいかもしれないけど、泣かないでね。きっとすぐまた会えるから」
「ああ、待っている」
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