忘我の中(3)

文字数 4,517文字

「あなた、よく聴いて。たぶんその男の子は今、山崎リサの怒りや悲しみや苦悩なんかの感情にさいなまれているわ。だから生きる気力が萎えている。それに山崎リサから得た力が、彼を守ろうとして、彼を包み込んで固まっている状態になっているんじゃないかしら。彼は今、その加護から抜け出せない。固く閉じ込められた状態になっている。彼は今、生きている。でもそれは、その加護から抜け出せないまま、枯れ果てるのを待つだけということ。私にもはっきりとどうすればいいのか分からないけど、ただこれだけは言っておくわ。彼の生きる気力をつなぎ止めなさい。そして山崎リサに彼を解放してもらうの。それができるのは、おそらくあなただけ。山崎リサと魂を共有するあなただけよ」
 ツグミには、ナミの語る話の内容がうまくつかめなかった。でも、大切な話だという気がした。だから訊いた。
「山崎・・リサって、・・お方様の事・・よね。あたしが・・お方様と魂・・共有してるっ・・て・どういう・こと?それで・・あたし・・は・・どうしたらいい・・?けっきょく・・どうしたら・・イカルが目覚める・・の?」
「あなたは、異なった時間の異なった空間ではあるけれど、同じ魂を山崎リサと共有しているわ。あなたがこれからどうしたらいいのか、それは私にも分からない。おそらく私よりも、その男の子に特別な感情を抱いているあなたの方が、答えを見つけ出すことができるはずよ」
 しばらくの間、ツグミはナミを見上げたままだった。その言葉の意味を咀嚼して必死に理解して、必死に自分の行動に当てはめようとしているようだった。
 そしてツグミは口を開いた。
「分かった・・・」
 ツグミはヒザを着いた姿勢のままで、自分の前に置かれている、イカルの左手を両手でつかんで、自分の額に当てた。はたから見たら、何かに何かを祈っているように見えた。
 実際、ツグミは祈っていた。目を閉じて。一心に。イカルに向かってイカルの事を祈っていた。
“どうかあなたの意識を、声を、視線を、あたたかい指先を、その微笑みをあたしに返して。お願いだから、あたしに、返して”

 唐突に、ナミの左耳のピアスが着信を知らせた。
“こんな時に”
 ナミは思わずタカシに背を向けた。ピアスが小刻みに振動している。出なければいけない。無視できない。しかし、今はそんな場合ではない。迷う。躊躇する。しかしピアスの振動は治まる気配をみせない。手控える気はいささかもないようだった。ナミはあきらめて左耳に手を伸ばした。
「こちら七十三番。どうした」
 ナミは周囲を警戒しながら、タカシに背を向けて三歩ほど歩を進めた。
「あなたの担当するコゼキ・タクロウの意識が核に入るわ。すぐに向かって」
 ナミにだけ聞こえる声がピアスから流れた。若い女性の声だった。ほぼ予想通りの内容だった。
 自我が分裂し、消滅して、行き場を失った意識が、魂の核に戻ってきたところに現れて、説得して核を次の命へと送る。ナミたちの日々の主要な仕事だった。いつも行っていることだった。いつも通りの指示だった。
「あーっ、えーっと、今ちょっと立て込んでて行くのは難しいかな」
 ナミはピアスに触れながら話している。
「立て込んでる?何か問題でも?なるべく詳しく教えてくれないかしら」
「立て込んでるって言うか、何か体調が優れないというか」
「体調?実体のないあなたが?よく言っている意味が分からないんだけど」
「何か倦怠感って言うかさ、だるいって言うか」
「それはやる気が無いってことですか?勤務評定に影響するかと思いますが、そのまま記録していいのかしら?」
「アナ、違うのよ。何と言うか疲れが溜まっているって言うか、気持ちが乗らないって言うか」
「それって霊力が減退しているってことじゃないですか?まずいですね。すぐに戻ってきてください。詳細に調べて原因を特定しましょう」
「いやそうじゃなくて」
「そうじゃない?ではどういうことでしょう?」
 まったく、少しはこちらの事情も察してくれないかしら。いつもいつも堅物すぎていやになるったらありゃしないわ。そう思ってはみたものの、この相手にそれを求めるのはお門違いだってことは、ナミもよく分かっていた。
 このアナと呼ばれた通話の相手は、ナミが所属するチームを統括する事務官だった。
 時々により多少の変動はあるものの、およそ三百名いるチームを統括し、事務全般を担当している女性だった。数多の情報を収集して、刻一刻変遷する状況に対応するべく、的確に判断し、担当者を割り振り、問題があれば即座に解決する。それを事務所から一切出ることなく一人でやってのける。有能かつ優秀であると誰もが認める事務官だった。
 そしてそのアナという事務官は、極力論理的に物事を進める。そこに感情や好悪が入り込む余地はない。どんな事柄も論理的に筋が通っていれば、すぐに納得し、方針を変えもするが、筋が通っていなければ歯牙にも掛けない。至極分かりやすくはあるが、きちんと筋道立てて話さないと納得はしてくれない。察してもらうなんて期待する方が間違っている相手でもあった。
「いろいろあって今、手が離せないのよ」
「いろいろとは?」
「いろいろって言ったらいろいろよ」
 アナは理路整然とした話し方しかしない。恐らくそういう話し方しかできない。だから感情にまかせて話す相手や論理的思考能力の欠損している相手とは、会話自体が成立しない。その点、彼女たちの所属するチームの送り霊たちは、そういう意味で厳選されていた。そんな精神的にブレのある者や思考能力に難のある者はいないはずだった。だからアナとしてはナミの話す内容に危機感を抱かざるを得なかった。たとえ一人でも、送り霊に何らかの問題が生じてしまうと、全体の業務に支障をきたしてしまうかもしれない。看過できない。早急に対処しないといけない。
「七十三番、何か障害が生じて任務遂行に支障をきたしているのでは?すぐにこちらに戻ってくることをお勧めします」
「だから今、取り込み中なの。コゼキ・タクロウについては次の核との接近時に処理するわ。またその時に連絡して。申し訳ないけど」
 つとめて冷静を装って通話を切った。
「また呼び出しかい?」
 タカシは困った風な表情をして、ナミの顔を見ていた。
「そうよ」
「そうか・・・じゃ行かなきゃいけないよな・・・」
 そう言ったきり、タカシは言葉を継ぐことができなかった。現状、何かにつけてナミ頼りなのだ。行ってほしくないのはもちろんなのだが、けっして行くなとは言えない、言えるほど鉄面皮にはなり切れなかった。
 ナミはしばらく彼の二の句を待っていたが、前回のように、安心して行ってこいとも言われなかったが、行かないでくれとも言われなかった。ナミとしては行け、と言われたい気もしていたが行くな、と言われたい気もしていた。
 ナミは一息、長く吐いてから言った。
「大丈夫よ。今はあなたとの契約を優先するわ。もう少し落ち着くまで一緒にいる。こんな状況であなたを一人にしたら、無茶しかしなさそうだから」
 タカシは微笑みながら、ナミの顔を見ていた。
「助かるよ。実際、君がいないとどうにもならないだろうから、本当に助かる」
 ナミもつられて微笑んだ。微笑んだ後ですぐに目をそらした。あたしは契約を守ろうとしているだけ、そう自分に言い聞かせながら。ただ心の片隅にアナの顔が浮かんでいた。
 あの人は、私が反抗しようが、指令に背こうが、けっして怒ることはないだろう。でもその分、きっちりと手を打ってくるはず。アナの行動は、全て業務の円滑なる遂行を目的としている。そのためなら、どんな手も使う人だ。結果、怒ってもらった方がよほどましだった、と思うような手を、きっちりと打つ、そんな人だ。
 どう考えてもここに残ったのはまずかった、と考えれば考えるほど思えてしょうがなかった。でも、自分の精神の奥底から、今ここを離れたくない、という思いがあふれ出していた。それがなぜなのか自分でも分からない。分からないけど、そうしたかった。だからそうした。それだけのことだった。

 ツグミが、再び目を開いた時、彼女は茫漠とした世界にいた。
 そこは、何もない空間だった。特定の色がなく、何も聞こえてこない世界だった。でも、とてもあたたかい世界だった。そのあたたかさを彼女は知っていた。いつも聞いている声のあたたかさ、いつも自分に向けられる視線のあたたかさ、ふれる手のあたたかさ、その体温のあたたかさ、イカルのあたたかさだ。
 ここは、イカルの中?
 ツグミはただよいながら不思議と安心感を抱いていた。心地が良かった。このまま何も考えずにただよっていられたら、とても幸せなんじゃないだろうか、そんな風に思えるほどに。
 あたしたちは、つながっている。初めて話した時から、いいえ、きっとそれよりずっと、遥か昔から、あたしたちはつながっていた。
 これで良かったのよね?こうしてあなたを感じながら生きることができるなら、それで。でも最後にもう一度、あなたの声が聴きたかった。もう一度、あなたの視線を感じたかった。もう一度、あなたにふれたかった。
 ずっと奥の方で動きを感じた。何かが動いている。命の存在を感じる。意思を感じる。
 ツグミはその方へ向かった。何かすごくワクワクしていた。楽しいことが待っていそうな気がした。喜びが待っていそうな気がした。
 しばらくただよってたどり着いた。
 そこには丸い大きな球体。
 彼女の足先から手の先まで一直線に伸ばしたより遥かにその直径は大きかった。そしてその外側は、いくえにも白い綱、彼女の腕と同じくらいの太さの真っ白い綱状のものでぐるぐる巻きにされていた。奥に何があるのか、まったく見えなかった。

 再びピアスが点滅を始めた。
 きっとまたアナだわ、ナミはそう思いながら応答するかどうか迷った。さっき通信を遮断してからずっと考えていた。
 アナは今、まったく納得していない状態だろう。納得するまで何度でもくり返し連絡を取ろうとするだろう。だからアナが納得するような論理的に破綻していない話をでっち上げでもしない限り、この先、ずっと着信に悩まされることになる。でも考えてもそんな話は思いつかなかった。どうしたものだろう?応答しないのも手だけれど、アナのことだから応答しなければしないほど、更に深刻に受け止めて非常手段を取るように図るだろう。だから納得させられないまでも早めに応答しておいた方がいい気もする。とりあえず心配するような状況ではないことだけでも、分かってもらえるように話すのが、現状では最善に思えた。だからピアスに手をふれて応答を開始した。
「ごめんなさい。待たせたわね」
 続いてピアスから落ち着いた女性の声、女性にしては低めの抑揚のおさえられたアナの声が聞こえてくるものと思っていた。だがナミの言葉に応えたのは、アナではなかった。その声を聞いた瞬間、ナミの全身が硬直した。
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