忘我の中(1)

文字数 5,724文字

 霧状のケガレが体内に入っていく。染み込むように侵入してくる感覚を、足先や手の指先をはじめ全身で感じた。それはもちろん頭の中にも入り込んでいた。
 つらい、悲しい、苦しい、憎い、さまざまな感情が一気に脳裏に押し寄せ、渦巻き、その場を占拠しようとする。
 肩越しにこっちを見て、小声で話しながら笑う女の子たち。
 欲情に捕らわれた男の顔。
 大人の女性が周囲の目を気にもせず、声を上げて泣いている。
 黒い服を着た大勢の人たち。みんな悲し気な顔をしている。
 たくさんの花が飾られた奥の部屋に大きな写真。そこに近寄りたくない。
 写真の優しい笑顔が次第にゆがんでいく。苦痛にさいなまれ、泣いて、怒って、苦悩する。そんな苦悶の表情が次々にこちらに向けて変化していく。それがどんどん大きくなっていく。
“お前のせいだ、お前のせいで死んだんだ。人殺し、お前は人殺しだ”
 どこからか声が聞こえる。誰の声?写真の人の声、いや、みんなが言っている、みんながこっちに向かって言っている・・・

 ・・・いったい、これは、誰の、記憶なんだ?

 誰かの黒い記憶が、彼に向かって容赦なく降り注いでくる。
 逃げる場所はない。
 ただ濡れそぼつしかない。
 彼はすべてをあきらめた。抵抗するための取りつく島もなかったから。
 全身から力が抜けていく。
 自分が黒く染まっていく様を覚悟して、ただ待った。
 すると、辺りが白い光に包まれた。
 すべてを圧するような光だった。とてもあたたかい光だった。
 その光は彼におおいかぶさった。優しく大切なものを抱くように。
 彼のすべてが白い光に包まれた。
 イカルは、ただ感じた。ただ思った。
“この光は・・・ああ、お方様だ”

 ツグミの目の前でイカルがゆっくりと倒れていった。
 呆然とした表情を浮かべたまま、後ろに受け身を取る素振りもなく、倒れていく。
「イカルーーッ!」
 ツグミは眼前に倒れ掛かってくるキビタキの身体を突き飛ばして、あわててイカルの元に駆け寄った。そして、イカルの後頭部が地面に叩きつけられる寸前に、危うく抱き止めた。
「イカル!イカルッ!イカルー!」
 うめき声を上げている。瞳孔が開いている。両手で首を掻きむしっている。イカルはあからさまに苦悶の様子を表していた。
「離れろ!イカルはケガレに取り込まれた。あやつられて襲ってくるぞ!」
 タカシがツグミをイカルから引き離すべく、ツグミの肩に手を掛けた。
 ツグミは片方の手でイカルの身体を抱えつつ、もう片方の手でタカシの手を払った。そして激しくくり返し首を横に振った。
 ツグミはタカシの手を払った腕で、イカルの、首を掻きむしっている手を抑えた。イカルの両手がツグミの腕をにぎりしめた。爪が食い込んだ。血がにじんだ。イカルのうめき声が、なおも強くなった。辺りを圧するほどに。
「イカルッ!しっかりして。あたし、何でも、するから。だから、だから、しっかり、して!しっかりしてよ」
 ツグミは見るからに必死の形相をしていた。そのほおには鈴なりに涙が流れていた。
 そして、その身体の周囲には、黒いもやが薄っすらと掛かっていた。
「まずいわ。逃げるわよ」
 突然のナミの言葉に、タカシはためらいを見せた。
「えっ、ちょっと待ってくれ。このまま二人を残していけない。彼女だけでも助けないと」
「そのコが危ないのよ。そのコがゲートになるわ。もう扉が開かれるわ」
 訳も分からず躊躇するタカシの腕を取って、ナミは飛び出した。低空だったのでタカシを引きずる感じになっていたが、そんなことには頓着するひまはないと言わんばかりに、とりあえずその場を離れることしか念頭にない様子で飛び続けた。
 イカルのうめき声が次第に弱くなっていった。見開いた目が次第に黒く染まっていく。やがて白目のすべてが漆黒に染まった。ツグミの腕をつかんでいた手の力が弱まっていく。
「イカル、イカル、イカル、しっかり・・しっかり、して」
 そしてイカルの手が、ツグミの腕を離れて、力なく垂れ落ちた。
「イカル?」
 ツグミは床に落ちたイカルの手を取って持ち上げた。でも、その手は再び、何の抵抗もなく、床に落ちていった。
 
“イヤーーーッ!”

 瞬間、ツグミの身体の周囲が黒く破裂した。
 濃密な黒い気体が、一気に放出された。
 そして延々と、それは放出され続けた。
 ケガレは波となり、ツグミの身体を中心に全方位に向けて流れていった。行く先にある建物を次々に呑み込みながら、人の生活を形成する物質も思い出もすべておおいつくしながら、留まることを知らない様子で広がっていった。
「はじまったわ。恐らく地上のケガレというケガレが彼女を出口として、この地下世界にやってくるわ。この世界の終わりのはじまりよ」
“異常を感知しました。至急避難してください。異常を感知しました。至急避難してください”
 辺りに警報が鳴り響いた。
「どうして彼女がケガレを排出しているんだ?何で今?」
「言ったでしょ。あのコは山崎リサと魂を共有しているの。地上のケガレは山崎リサが生み出したもの。だから、あのコに負の感情が生じれば、地上のケガレは同じ魂から生み出されたケガレとつながって、あのコを媒体としてこの世界に出現することができるのよ。たぶん今、あのコは今までに経験したこのない悲しみと、やり場のない怒りと、抑えきれない寂寥感で満たされているわ。地上のケガレとリンクするには充分すぎるほどにね」
“異常を感知しました。至急避難してください。異常を感知しました。至急避難してください”
 鳴り止まない警報音をかき消すように背後から強風、どこかに火の存在を認識するには十分なほどの熱風が二人に襲い掛かってきた。
“ケガレが熱を帯び出している”
 ナミはこれからどのように逃げるのか、考えを巡らせた。凪瀬タカシは自ら防衛はできるだろうけど、私は無理だわ。それに彼だってこの量のケガレにいつまで耐えられるか分からない。とにかく逃げないと。
「ナミ、待ってくれ。俺は二人の所に戻る」
 タカシは地面に足を踏ん張り、ナミが手首をつかんでいる方の腕をグイっと引き寄せた。ナミは予想外の力強さで腕を引かれて空中に浮かんだまま、思わず後方を振り返っていた。
「えっ?何考えてるの?バカなの?冗談じゃないわよ、あなたがいくら守られているからって、この量のケガレを相手にできるわけないじゃない。情に流されたところで死体が一つ二つ増えるだけよ」
 タカシは右腕を上げて、手のひらを前方に向けて差し出していた。彼らの方向へ襲い掛かってくるケガレの波は、彼らを避けて両脇を流れていく。
「ナミ、もっと近寄ってくれ、離れていたら君を守りきれない」
 彼はちらりと振り返ってナミを見ると、再び前方に向き直って、黒い波を押し分けながら歩きはじめた。
「ケガレの放出を止める。俺は決めたんだ。この地下世界もこのケガレもリサの心の中にあるものなら、全部受け止めるって決めたんだ。逃げちゃだめなんだ。踏ん張って受け止めるんだ。君には悪いけど手伝ってくれ、頼む」
 ナミは、瞬きながら地上に降り立ち、苦笑しながら彼の背中に歩み寄った。
 そして独り言のようにつぶやいた。
「私もバカな男と契約してしまったものね。無茶な男だとは思っていたけれど、ここまで後先考えないとは、思わなかったわ。・・・でも、退屈はしないけれど」
 時々、強く押し寄せてくるケガレの圧力に、押し戻されそうになりながらも、タカシは着実に一歩々々前進した。
 ケガレはすでにE地区のすべてに行き渡り、時間とともに濃厚に濃密に濃縮されていく。
 ケガレの黒い流れは更に強い圧力で襲い掛かってくる。タカシは更に集中して自分たちの身体が黒く染まらないように、防御膜を張っていく。
「ナミ、イカルはケガレを吸い込んだのに、すぐに死ななかったし、あやつられもしなかった。どういうことなんだ?彼にも俺のように何かの力があるのか?もしかして・・・」
 振り返らずに発したタカシの言葉にナミは答えた。
「そうね。今までの彼の様子や言動から、もしかしてって思ってたんだけど、間違いないようね。彼はあなたの生まれ変わりよ。同じ魂を受け継ぐ者よ」
 ケガレの圧力がより一層強まった。タカシは思わず歩を止めた。押し返されないようにするだけで精一杯に見えた。
「やっぱり二人とも助けないといけないみたいだな。イカルは生きてんだろ?死んでないんだろ?さすがにリサの力でも生き返らせるのは無理だろう?とにかく行くしかないよな。あいつらの所に行くしか」
 うめくように言いながらタカシは再び一歩足を進めた。そしてまた一歩。更に一歩。着実に彼らは前進していった。

 座り込んだまま、イカルを胸に抱いて、ツグミは幼い子どものように声を上げて泣き続けた。何ものも一切関知することなく、何にもはばかることなく、辺りに純粋な感情からくる声を響かせながら泣き続けた。
 何も考えられない、何もすることができない。
 絶望。一筋の光明、そのかけらさえ見出すことができない。
 すべての終焉。
 イカルがいなくなれば、この世のすべて、何の意味もない。
 終わった、もう、この世界は終わった。
 周りから無数のコガレたちの甲高い鳴き声が聞こえた。
 ツグミは閉じていた目を開いた。コガレたちとその分身たちがツグミたちの周囲を取り囲んでいた。そしてちょろちょろとイカルの方へ触手を伸ばしてくるケガレに対し、威嚇し、攻撃し、防御していた。
 ケガレの触手は時折、口を開いてコガレの分身を噛み、くわえ、呑み込んだ。何匹かの分身が消えた。でも残されたコガレと分身はひるまなかった。どんなに困難で、どんなに力の差が歴然としていても戦う姿勢を保持し続けていた。
「あなたたち、イカルを助けようとしてくれているのね。ありがとう、本当に、ありがとう。でも、もう遅いの。遅いのよ。遅かったのよ・・・」
「お前、勝手にあきらめてんじゃねえ。お前、司令官だろ。しっかりしろ!」コリンの思念が頭にこだました。
「ツグミちゃん、しっかりするの。とりあえずこの状況はまずいの。脱出するの」タミンの思念も響いた。
「ツグミ殿、お気を確かに。冷静に今、何をするべきか、お考えください」ウレンの思念も届いた。
 でもツグミは更に泣き続けた。彼女のすべてが泣くことしかできなくなっていた。泣く以外の機能がすべて麻痺しているようだった。
「まだだ。まだ遅くない」
 突然、目の前から声が聞こえた。ツグミは目を開いて前を向いた。すぐそこにタカシとナミがいた。タカシは自分の身体から薄っすらと光を発していた。その光の中で凛として彼女と向き合っていた。コガレたちはあわててツグミの背後に避難した。開いたツグミの目から更に涙が流れ続けた。
「イカルが、起きて・・くれ、ないの。どんなに、呼んでも・・起きないの。こんなこと・・初めてよ。起こして、起こして、どうか、起こして、ください・・」
 タカシは両手を差し出した。そしてツグミの両のほおを手のひらで包んで、正面から、真っ直ぐな視線を向けて、ツグミを見た。
「落ち着け。あきらめるな。そこにイカル君を寝かせて。今すぐ!」
 泣くことのみに満ちていたツグミの身体に、行動の指針が突然、示された。ツグミは泣き続けながらも小さくうなずいた。
 タカシがほおにふれていた手を離すと、ツグミはゆっくりとイカルの身体を地面に下ろした。
“イカル、生きてるよな。さすがに生き返らせることはできないぞ。目を覚ますかどうかはお前次第だ。イカル、反応してくれよ”
 タカシはそう胸中で目の前の少年に語り掛けながら、両の手のひらをイカルの胸の上に当てた。そして集中した。手のひらを経てイカルの体内に集中した。
 この少年一人を救うことができなければ、この世界を救うことなんて到底無理だろう。何が何でも助けないと。イカルとツグミはこの世界に来て一番長く深く接している相手だ。ある意味、タカシの中ではこの世界を代表している存在だ。ここでイカルを死なせてしまっては、この世界の崩壊を防ごうとする彼の行動も方向性を失い、また一から、いや状況的にマイナスから行くべき方向を捜さなければならなくなる、そんな気がしていた。
 タカシは集中し続けた。自分の身体中の集中力を絞り出すように、イカルの体内に向けて注ぎ続けた。でも反応はなかった。イカルの身体は、ピクリとも動く気配を見せなかった。
“もう死んでしまったのか?もう無理なのか?”
 タカシは次第に弛緩していこうとする集中力を繋ぎ止めようと、必死に自分の意識を鼓舞し続けた。
 何の反応もない。タカシは少し顔を上げた。
 涙を流し続けながら、身体を縮こませているツグミが、イカルの姿をまばたきもせず凝視している。
“あきらめちゃダメだ。このコたちはリサの一部なんだ。助けないといけない。全部受け止めて助けるんだ”
 タカシは振り返ってナミを見た。ナミはジッと身じろぎもせず、彼らの様子を眺めていた。口を真一文字に結び、けわしい表情をして。
 タカシはナミの目を見て少し安心した。イカルはまだ生きている、そう推察できた。ナミならイカルが死んでいるのか生きているのか、見ただけで分かるだろう。何せ本職は死神なのだから。もしイカルが死んでいたら合理性を優先する傾向のあるナミは、すぐに、そんな無駄なことはやめなさい、と言いつつタカシを制止するだろう。そんなナミが、ただジッと見ているだけってことは、まだイカルは助かる可能性があるということだ。そしてこのやり方も間違っていないはず。
 タカシは手のひらをイカルの胸に当てたまま深く長く息を吸った。身体中に活力を充填させるため大きく息を吸った。そして頭上に向かって叫び声を上げた。
「リサ、力を貸してくれ。このコを助けたいんだ。リサ、頼む俺に力を貸してくれ!リサーッ!」
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