忘我の中(7)

文字数 5,625文字

 兵士たちは、再び動き出したケガレの襲撃に応戦していた。
 HKIー500の発砲音、破裂音。
 黒蛇の姿をしたケガレの威嚇する声。
 ケガレに巻きつかれ、空中に持ち上げられた兵士が発する叫び声。
 その兵士の名を呼ぶ、他の兵士の声。
 兵士が発した弾がケガレに当たって、持ち上げられていた兵士が地面に落ちる音。
 まただ、また、仲間が死ぬ、俺の目の前で。ノスリは恐怖の念に全身を包まれていた。自分が襲われることよりも目の前で人が死ぬ姿を、その様子を見続けないといけない恐怖が身体の周りに渦巻いて、じわりじわりと彼を締め上げていく。
「みんな、固まれ。あわてるな。あわてずに一体ずつ確実に撃ち落とせ」横でエナガの声が聞こえた。
「全員、円形に展開。広がらずに密集してケガレを迎撃する」イスカの声も聞こえた。
 ダメだ、逃げないと、みんな殺される。ノスリは、退却、と声を上げようとした。でも声が出なかった。恐怖に声帯が縮こまっていた。ノスリは唾を呑み込もうとして口の中が乾き切っていることに気がついた。逃げないと、みんなを連れて逃げないと、イカルやツグミも連れて行かないと、そう思いながら二人の方へ視線を向けた。
 ツグミがにぎりしめていたイカルの手を、自分の額から離して、地面に下ろしているところだった。
 ツグミはそっとイカルの手を地面に置くと、目を閉じたまま、息を吸いながら、ゆっくりと立ち上がった
 やがて真っ直ぐに立つと、そのまま上を向き、はぁーと息を吐いた。
 そして、前を向き、目を開いた。
 ノスリはその様子をただ見つめた。何か新しいものが生まれいずる瞬間を見ている感覚を抱きながら。今までのツグミと姿形は同じだった。しかし雰囲気が違う。はたして同じ人物だと言えるのかと疑問に思うくらいに。
 ツグミはゆっくり周囲を見渡した。その頭の中にいくつかの声が聞こえてきた。
「ツグミちゃん、戻ってきてくれたの。良かったの。早く、早くここから逃げるの」
「ツグミ殿、現状は非常に芳しくありません。すぐに撤退しましょう」
「おい、司令官。とっとと撤退するぞ。早く指示を出せ」
 ツグミが首を巡らせて、静かにコリンに視線を向けた。目が合ったとたん、コリンは一瞬ゾクッとした。そこに自分の思いもよらないような意志の力を感じていた。
「ツグミちゃん、危ないの!ケガレが来るの!」
 ツグミが視線を頭上に向けると、そこに彼らに向かって襲いくる数匹の、蛇型のケガレの姿があった。コガレたちが身構えた。ツグミが手を伸ばした。
 ツグミは黒蛇の首根っこをつかんでいた。更に襲い来るもう一匹も。両手に黒蛇をつかんでいた。黒蛇は激しく頭を動かして抵抗した。ツグミの身体が右に左に激しく揺すぶられた。身体が少し宙に浮いた。
「おいっ、ツグミ、何やってるんだ」コリンは、ツグミの予想外の行動に思わず叫んでいた。
 ツグミの両手につかんでいる黒蛇が、ほぼ同時に顔を彼女の方に向けた。二匹ともにシャーと鋭く威嚇音を発し、口を大きく開いて今にも彼女に襲い掛かろうとしていた。
“これは感情の塊、あたしに噛みつこうとしている。なら、あたしの感情をぶつけてやる!あたしの感情で呑み込んでやる!”
 ツグミは故意に理性を抑え、情動を解き放った。イカルを生死の境に追いやり、自分に苦痛を与える存在、眼前の黒い固まりに対して奔流のような憤怒の情をぶちまけた。
「あなたたちは私の身体から出て来たんでしょ。だったら私に協力しなさい!協力しないんだったらこのまま握り潰すわよ」
 怒りに煮えたぎっている視線だった。イカルからあたしを引きはがそうとするすべてのものへの怒り、理不尽にあたしたちの平穏を奪うすべてものに対する怒り、そんな感情の塊が、両手のケガレの赤い目をするどく射抜いていた。その奥底にある、どろどろとした意志の塊をわしづかみにして握り潰さんばかりの勢いだった。
 純粋な怒りが目前にあった。それはケガレたちの存在意義さえ危うくするほどの純度の高い怒りだった。それに染まる、それしか彼らが存在する意味を保持する手は残されていないような感情の奔出だった。
 ケガレたちは、急に大人しくなった。
 ツグミが手を開くと、黒蛇たちはツグミの身体に寄り添うように巻きついた。
 そのままツグミは、兵士たちの方向に、足に意志を乗せて歩きはじめた。
 兵士たちに襲い掛かろうと伸びる黒蛇然としたケガレの数は、急速に増えていた。兵士たちが発砲して霧散させても、次から次へと新手が襲い掛かってくる。そこにいる兵士全員がその赤い目に狙われている恐怖を感じていた。
 兵士たちの中で数人が、自分たちに近づいてくるツグミの存在とその異常な状態と雰囲気に気がついた。
 兵士たちは目の前の状況に対して、自分たちがどう対処するべきなのか、判断に迷った。自分たちの視線の先にいるのは同じ部隊の仲間で間違いないはずだった。しかしどうやらケガレを使役している。どうしたらそんなことができる?それに彼女の周りにいる小さな黒い塊の集団は何なのだろう?
 次々に湧き出てくる疑問点をすべてツグミに問いただしたいところだったが、周囲のいたる所からケガレが、彼らに向かって獰猛な口を開いて襲い掛かってきていた。兵士たちはツグミの事が気にはなったが、とりあえず自分たちの身を守ることに集中せざるを得なかった。
 ツグミが右手をスッと静かに前に差し出した。彼女の身体に巻きついていた黒蛇たちが兵士の集団に向かって瞬間的な速さで伸びていった。その勢いは凄まじく、たちまち兵士たちのそばに到達し、自分と同類のケガレたち数体を粉砕した。
 ツグミのケガレたちは最初は他のケガレと変わらない大きさだった。しかし見る見る内に一回り身体を大きくしていった。そして更に四方八方に飛び回り他のケガレたちを次々に粉砕した。その勢いに臆したのか他のケガレたちの襲撃がやんだ。二体のケガレは、尚も兵士たちの頭上を飛び続け、他のケガレを粉砕していった。
 その間、ツグミは冷たい眼差しを兵士たちに向けていた。
「あなたたちはイカルの友達だから、あたしが助けてあげる。その代わりイカルを病院に連れてって」
 ツグミが毅然とした態度で話をしている。今まで見たことのない情景だった。ただそれよりも、誰よりもイカルと離れたがらないツグミだったから、いつもなら人の手を借りなくても自分がイカルを連れていくと言うだろう。だから兵士たちはいぶかしんだ。そんな、みんなの心の声を代表してエナガが口を開いた。
「お前はどうするんだ?一緒に行かないのかよ」
「あたしは、これからしないといけないことがある」
「しないといけないことって?」
「お方様に会いにいく。イカルを助けるために」
 訳が分からない。ツグミは人と呼んでいいのか分からない状態だし、お方様に会いに行くなんて普段なら一兵士が考えることではない。もう少し説明がほしい、そう思いながらノスリが口を開いた。
「ツグミ、どういうことだ。お方様に会いにいくだなんて」
「イカルを救うためよ。イカルが目を覚ますためには、お方様の力が必要なの」
 ツグミの様子が普段と違うことは誰の目にも明らかだ。しかし、イカルの事を最優先にする姿勢を見ると、目の前にいるのはツグミで間違いないようにも思える。
「塔に行くのか」
「そうよ」
「さっき本部から連絡があって、この都市にケガレが侵入した。塔は、そのケガレたちの群れに取り囲まれているらしい。それでも行くのか」
「ええ、行くわ」
「俺たちは協力できないぞ。俺たちの任務はその男を連れていくことだ。お前たちは反逆の嫌疑がかけられている。大人しく連行されるというなら一緒に行こう。しかるべき場所で申し開きをすればいい」
 ツグミは静かに目を閉じた。そして再び開いた目は、正面からしっかりとノスリを見据えていた。
「イカルの事をお願い。それからタカシ様のことも。二人ともおかしくなっちゃっているけど、あたしがどうにかする。それまでけっして死なせないように、お願い」
 ツグミの目は一切ブレない意志で満たされていた。
「分かった」ノスリは言った。
「おい、どういうことだよ。訳分かんないけど、とりあえずツグミ考え直せ。俺たちにもだけど、本部や首脳部にきちんと説明すれば許してもらえるかもしれないだろ」
 エナガがそう言っている間、イスカはジッとツグミの目を見ていた。そしてノスリに呼びかけ、目が合うと小さくうなずいた。ノスリも了解の意を示すためにうなずき返した。
「エナガ班、イカルを連れて中央病院にいけ。それでいいな」
 ノスリはそう言いながらツグミに視線を向けた。ツグミはうなずいた。
「オイッ、お前たちツグミをそんなにすんなり信用しちまっていいのかよ。反逆者だぞ、ケガレと仲良しになっちゃってるんだぞ!」
 エナガはノスリたちのあまりの理解の良さに危うさを感じた。そんなにすんなり解放しちまうなんて、なんて人がいいんだよ。
「エナガ、俺たちもいろいろと状況が変化して正直、何を信用していいか判断に迷う。ならせめて仲間を信じてやりたいんだ。ずっと一緒に暮らして一緒に大きくなったんだ。大丈夫、ツグミは人付き合いは下手で、不器用で、気分屋だけど、俺たちの思いを裏切ったりはしないやつだ、たぶん・・・」
 エナガは、まったく納得していなかったが、ノスリが言い出したら聞かないたちなのはよく知っていたので、不承々々ながら従う旨の返答をした。
「イスカ班は俺と一緒にその男を深層牢獄に連れていく。全員いいか、現状、非常事態だ。気を抜くな」
 ハッ、と兵士たちは返事をして、するべきことをするために移動をはじめた。
 ノスリは自分の装備の中からHKIー500のバッテリーを取り出して、ツグミに向かって投げ渡した。
「持っていけ。何か役に立つかもしれない」
 ツグミはバッテリーを受け取り、自分の足元に転がっているHKIー500を見て、ノスリに視線を向けた。
「ありがとう」
 そう言うツグミを見つめながら、死ぬなよ、と思ったが、ただ、
「あぁ」とだけ言って、イスカに続いてタカシのいる方へ向かって行った。
 ツグミはイカルの周りにいるコガレたちに、おいで、と声を掛けた。コガレたちは彼女の足元を囲むようにみんな集まった。そんなコガレたちの中から自分のHKIー500を拾い上げた。そしてイカルに視線を向けた。イカルの周囲にはエナガの班員たちが駆け寄っていた。その兵士たちの肩と肩の間からイカルの生気の失せた顔が見えた。
“イカル、待っててね。あたしが、あなたを、助けるから”
 そう心の中で語り掛けてからツグミは走り出した。二体の黒蛇とコガレとその分身の群れも彼女とともに移動していった。目指すは廃棄物処理場、そこから伸びる抜け道からなら誰の監視も干渉もなくB4区画に行けるはず。そこからA地区に行く。お方様の所に。

 廃棄物処理場に到着した。ゴミの山の脇にある小道を通って奥に向かっていく。かなり先まで道が続いている。その途中で、横の壁に唐突に大きな空洞が空いているのが見えた。その通路入り口の扉はなぜか開いていた。少しいぶかしく思い、警戒が必要かと思いながらも焦る気持ちの方が勝っていたので、その入り口に近づいていった。
 中をのぞく。明かりはない。塗り固められたような漆黒がずっと奥まで伸びていた。もちろん誰もいない。ケガレさえ欠片も見えない。
 この道を行けば、きっと困難なことばかりが待ち受けている。きっと彼女が望まぬ異常な事態が手ぐすね引いて待っている。誰も助けは来ない。でもそんなことは彼女にとって大したことではなかった。ただ無性に、強烈に、執拗に、胸を締めつけるのは、今ここにイカルがいないこと。きっと他の誰かがいてもこの寂寥感は癒されない。
 ・・・あの時、ただつくねんと座っていた。
 思い出す。泣き疲れて、何もできず、考えることも困難で、いつまでもジッと座っていることしかできなかった、メジロがいなくなった日のことを。
 あまりに胸を締めつけられて、ツグミは込み上げてくるものを抑えきれず、壁に手をついて足元に嘔吐した。
 涙が出た。それが吐き気に伴うものか、寂しさの表出したものかは分からなかったが、目尻から一筋、ほおを伝って流れ落ちた。
 ・・・イカルが手を伸ばしている。
 ジッと身じろぎもせず長い時間、座り込んでいた彼女に、優しく微笑みながら手を伸ばすイカルの姿が脳裏に浮かんだ。あたしの記憶の中でも一番大切な記憶。あの微笑みを見るために、あたしは生きているの。
 二体の黒蛇が下から彼女の顔をのぞき込んでいた。黒い身体に二つの赤い点と口がついているだけだから表情は分からなかったが、彼女の表情をうかがっていることはなんとなく分かった。
 タミンとコリンとウレンが彼女の身体を駆け上って肩に乗った。タミンがそっと彼女のほおに手を伸ばして優しく触れた。
 彼女は微笑みながらケガレとコガレたちを順番に撫でてやった。
「あなたたち心配してくれているの?ケガレなのに優しいのね。大丈夫よ。あたしは大丈夫」
 彼女はケガレたちを撫でた手を上げて、その袖で流れた涙を拭いた。
“あの微笑みを取り戻す。私が行くしかない。行くのよ”
 彼女は前を向いた。その目にはもう涙はなかった。
 HKIー500に付属するライトを点けて通路を照らす。足元はぼやけていたが歩行に不自由がない程度には明るい。先にいくほど薄暗くはあったが灯りは届く。しかし道が少し曲がっているのであまり奥までは見えなかった。
「さぁ、みんな行くわよ」
 彼女は、先の見えぬ暗く長い道のりに、足を踏み出した。
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