蠢動の中(1)
文字数 5,651文字
ナミは手のひらから映像を浮かび上がらせた。
指先で少し操作すると、そこには山崎リサに関する情報が、尽きることのない泉のように、後から後から湧き出してきた。ひと一人分だけとはいえ膨大な情報量だ。
一つ一つ見ていくとキリがないので検索した。何年何月何日、自我のどこそこに外部からの侵入があって、今、その侵入物はどこにある、という情報が次々に画面上に浮かび上がってくる。すべてがすべて凪瀬タカシの情報ではない。バグであるかもしれないし、時空の歪みから紛れ込んだゴミかもしれない。
選別し、タカシの情報を更に詳細検索していく。今、彼はどこにいるのか、それはすぐに見つかった。この世界でD地区と呼ばれている、西端の地域にある大きな施設の一点に反応があった。
すぐにタカシがいる場所を拡大して表示した。ただの地図だったが、建物内部の構造まで見ることが出来た。
タカシだろう一点の周囲はある程度、空間があった。しかしそれほど広がりがなく、狭い部屋に閉じ込められているようだった。おまけに、その部屋の周囲は、霞みがかっているようにぼやけていた。それは何かの障害物がある証だったが、動いている霞みもあり、そのほとんどが、人の存在を表していることが見て取れた。
ナミはもちろん知らなかったが、先月の委員たちによるアント掃討作戦によって、捕縛された人々が拘置所の中に多数収容されていた。その収容能力を遥かに超える容疑者の多さに対して、刑務官も総動員されており、所内は、空調を凌駕する人いきれで空気が重くなっていると感じられるほどの密度で、人々がひしめき合っていた。
ナミはその建物のある場所まで空中を飛行していった。時刻は未明、辺りはかなり薄暗かったし、人影もなく、更には高速の移動でもあったので彼女の姿を認識する人は誰もいなかった。ただナミは、端からそんなことを気にするつもりもなかった。あたしはあたしがするべきことをするだけ。それで他の人がどう思おうが、自分には関係ない。彼女の基本的な行動指針だった。
その施設群は高い塀に囲まれていた。その塀の上に監視台が四か所設置されている。どうみても犯罪者の収容所だった。そんな所に収容されるなんて、いったいあの人は何をしたのだろう。ナミは空中で停止して、その施設群を見下ろしながら思った。
さて、どうしたものかしら。彼女は基本的に人ごみが嫌いだった。空間転移の能力を使うことも難しい。それに彼女の圧縮能力も前面に集中して、その間、正面以外は無防備になってしまう。そういった諸々の点で、その人だらけの施設の中に入る気になれなかった。
彼女が思案を巡らしている間に、塀にある大きな鉄の扉が開いて、白い服を着た集団がわらわらと外に出てきた。五十人に満たない程度の数だったが、東側に向けて駆けていった。途中でいくつかの集団に分かれ、更に細分化して散らばっていった。
そのうちの三人が、飛んでいるナミの下付近に移動してきて、立ち止まると周囲を警戒しはじめた。ナミはいったんその委員たちから離れた場所に降り立ち、足元にあった鶏卵ほどの大きさの石を拾って、再び空中に飛び立ち、その委員たちの後方にその石を投げ落とした。
一人の委員が、自分の背後で立った物音に気づいて身構えた。そして他の委員たちに一声掛けてから、石が落ちた場所に銃を構えながら移動していった。ナミはその委員を上空から追って行った。その手にはコンクリートブロックが一片抱えられていた。ゆっくり下降して委員の頭のすぐ上に移動した。
ここらへんでいいかしら、そう思うとナミはブロックから両手を離した。ガスンという音とともに委員は意識を失い、前方へと倒れていった。
おい、どうした、という声とともに仲間の委員がやってきたが、その時にはもうその場に人の姿は見えなかった。
午前四時。
発光石の光は、真夜中でも微かに都市中を照らしている。そんな、暁闇の中、イカルは、B地区セントラルホールでエレべーターを降り、同地区の西側地域に向けて走っていた。もちろんエスカレーターでも行けるが、なるべく自分の位置情報を残さないために、走ることにした。
B地区は、東から、B3区画、中央部、B4区画の三区画に、大きく区分されていた。更に中央部は、北から、セントラルホールを有するB1区画、シティを有するB2区画、そして住宅が密集するB5区画とに細分化されていた。
イカルは間もなくセントラルホールを抜け、B4区画に入るところだった。
そのB地区の西側に、南北にのびている区画の南端に、彼の目指している高台広場があった。
イカルは、私服の運動着に全身を包み、大きめのナップサックを背負っていた。運動着は濃い灰色だった。なるべく人に気づかれずに移動するために地味な色を選んだ結果、その服を着ることに決めた。
高台広場にはまだ距離があったが、走れば五時には間に合うはずだった。
イカルは更に走りながら、この自分の選択が本当に正しいのかどうか自問し続けた。アントの計画が失敗すれば、いや成功したとしても、今、自分が手にしている立場や職や住居などのすべてを失うことになる。更には首脳部の方針に逆らったために、反逆者として手配されてしまうだろう。
“そうなったら、ツグミは何て思うんだろうな”彼女を抱きしめた時、感じたぬくもりをその手に思い出しながら、イカルはただ走り続けた。
目前の建物の間から、高台が見えるようになった。高台とはいえ、地下空間のことである。高さはビル三階分ほどしかない。だからすぐにイカルはその高台の上に到着した。
そのサッカー場ほどの広さもない広場には、彼の他にはまだ誰もいなかった。奥には地区外壁が岩肌をむき出しにして、頭上まで伸びていた。
彼は目立たないように外壁のそばに移動して、そこに座って待つことにした。彼は左腕の腕時計のパネルを、指先で触った。パネルに現時刻が表示された。もうすぐ五時だった。
次第に、彼の全身を、緊張感がむしばみはじめていた。このまま誰もこなければいい、そう思いもした。もし時間になって誰も現れなければすぐに引き上げよう。そうすれば普段の生活に戻れる。何もなかったこととして、目と口を閉じ、耳を塞いで生活すればいい。納得出来ないことにも目を背けていれば、平穏な生活を送ることが出来る。そうすればツグミともいつまでも一緒にいることが出来る・・・。
突然、彼のいる場所に近い外壁が光った。彼が視線を向けるとその部分の外壁が透明化していた。光っているように見えたのは、外壁内部の灯りが外に漏れ出していたためだった。透明化した壁の中には、数名の男女の姿が見えた。彼はとっさに身を隠さなくては、と思った。しかしそう思ってもこの高台には身を隠す場所はどこにもない。彼は透明化した外壁に、背を向けて走り出した。すぐに透明化した扉が開いた。
「待ちたまえ、イカル君」
名前を呼ばれてイカルは立ち止まり、振り返った。扉から出てきた男たちは顔を布で隠すようにおおっていたが、その中の一人が布を顎の下までおろして顔を現わした。
そこには彼のよく知っている顔があった。
三年前、彼とツグミは頻繁に病院で身体を調べられた。数多いる地底生まれの子どもたちの中で彼らだけが、特異体質、だったから。
彼らは、ケガレに対してわずかながら耐性を持っていた。それがどうしてなのかもちろん彼らには知る由もなかったし、他に知っている者もいなかった。だからあらゆる検査を用いて詳細に調べられた。
その検査はB地区にある中央病院でほぼ三人の医師によって行われた。
クマゲラを筆頭に、セキレイという若い男性医師とマヒワという女性医師の三人が頻繁に彼らを呼び寄せては検査を行った。
その検査が続いた期間の中で時々、その医師たちはイカルに対して検査とは関係のない話をすることがあった。お方様の話、地上の話、ケガレの話、そして選ばれし方様の話。その話の内容から日を追うごとにイカルは、その医師たちがこの地下都市における反社会的思想に染まっているのだと、気づきはじめた。
そして今では、はっきりと反社会的組織に属していると察していた。
その三人の医師のうち、セキレイとマヒワの姿がそこにはあった。
「来てくれると思っていたよ。ある人から来るかもしれないと聞いていたが、来てくれて良かった。これで我々にもまだ希望が残ったよ。とにかくついてきてくれ。詳細は移動しながら話すよ」セキレイが朗らかな表情をして言った。
ある人というのがモズ隊長であるとは思ったが、立場上、名を伏せているのだろう、イカルはあえてそこには触れなかった。
二人の医師の他には三人の男がいた。イカルを含めて六人は、セキレイの誘導でなるべく人家のない道を選んで進んだ。極力、音が立たないように気をつけながらも駆け足で進んだ。周囲に人家のない、見晴らしのいい場所に着くと、移動を続けながら、少しずつセキレイは状況と作戦計画を話しはじめた。
この計画には彼らを含め、十二人が参加しているとのことだった。まだ他にもアントの構成員は残っているらしいが、種々の理由で今回の作戦には参加しないようだった。
クマゲラ先生は?イカルは訊いてみようかと思ったが、その前に、セキレイが今回の作戦にクマゲラ先生は参加しない、と打ち明けた。僕たちがいなくなっても替えがきくけど、クマゲラ先生がいなくなったら助かる命も助からなくなっちゃうからね、冗談めかしてセキレイが言った。僕たちがこの作戦で大けがをしても、きっと彼が助けてくれる、とも言った。
イカルたちが住むD地区の外区画は、基本的に縦横に穴を掘っていき、その枝分かれした穴の先がそのまま居住空間になっていたが、その他の地区や区画は、とてつもなく大きな、ひとつの穴の中で区分けされていた。その広い空間の中に各戸、基本的に石造りの建造物を建てて人の住まいとしていた。
そんな石造家屋の中にある、見た目、廃屋にしか見えない、半ば崩れかかっている一軒の家の中に彼らは入っていった。
中に入ると意外と片づいていた。普段から彼らが人目を避けつつも使用していたのだろう。
セキレイは石のブロックを組んだ簡易な机の上にタブレットを置いてイカルの前に映像を映し出した。それはこのB地区の地図。セキレイが地図上を指で示しながら、静かな声で説明をはじめた。
「目の前の通りから一本奥に入った通りの下を、エスカレーターが通っている。あと三十分後に選ばれし方様を連行した一団が通る予定だ。この地点を通過する際、その前後の地点で別動隊が煙幕を張ることになっている。知っての通り、ケガレ対策のために、エスカレーターやエレベータ―は煙に敏感だ。煙幕を張ってすぐに、エスカレーターは動きを停めるだろう。もちろん人体に害を及ぼす危険性がない程度の量だが、煙幕のために、かなり呼吸はしづらくなり、中にいる者たちは息苦しくなる。それに遮蔽壁も閉じてしまうだろうから移動も出来ない。そこで非常通路を通ってすぐ目の前、この地点に脱出してくるはずだ。我々はそこで待ち構えて、委員たちを拘束し、選ばれし方様を奪還する、そういう計画だ」
セキレイが画像上に指し示す場所は、目の前の通りから横道を入ってすぐの所だった。うまくいけばいいけど、聞いていてイカルは思った。何か危うさを感じざるを得なかった。
「もし、委員たちがこの脱出口を使わなかったら、もし委員たちが襲撃を予想して、抵抗してきたらどうするんですか?」
イカルは計画に水を差すつもりはなかったが、大切なことなのであえて訊いてみた。
「それは・・・、この計画を予定通りに遂行するしかないんだ。計画通りに進めればうまくいくはずなんだ」
セキレイは苦渋の表情をして言った。彼らも不測の事態をいろいろ考え合わせたのだろう。しかし時間的に差し迫り、人的にも充分でない現状では、状況の変化に対応する余裕などあるはずもない。だから計画通りに進むことを期待するしかなかった。イカルは察してそれ以上、その類の質問をしないよう自分を抑制した。
「君はアトリ君と仲が良かったんだよね」
唐突にセキレイの後方にいた男性が声を発した。
「ええ、僕は彼のことを親友だと思っていました」
「彼も間違いなく、君のことを親友だと思っていたよ。いつも君のことを、しつこいくらいに話して聞かせてくれたから。だからここにいるみんなは、君にはとても親近感を持っている。それに期待もしている。アトリ君が、君がみんなを地上に導いてくれるって言っていたからね。あんまりしつこく言うから、今じゃあ、みんなも、そうかもしれないって思っちまっているよ。だから君にとっては、初対面の者もいて、不安が多いかもしれないけど、俺たちは君を、本当の仲間だと思っている。信用してほしい。俺たちは間違いなく、君の味方だ」
アトリは、自分の胸内に渦巻く意見や想念を無遠慮に周囲にまき散らす。それが正しいと心の底から思い、信じて疑わない。確かな知識や情報に裏づけられているためにブレようがない思いを、そのまま真っ直ぐに周囲の人の心に投げつける。何度でも、その心に届くまで。
アント内部にいるアトリの様子が目に見えるようだった。時の経過とともに反社会勢力として、人々に冷たい視線を向けられていく人々に、これが正しいと屈託のない笑顔とともに持論を高らかに歌い上げる。まったく自分の説を疑うことがない、自分の説が正しいという自信しかない、そんな口調で人々の心に言葉を突き立ててくる。
きっと水を得た魚のように嬉々としてみんなを感化していたのだろう。アントに入ると聞いた時は、やはり止めようとも思ったし、考え直すように説得出来ないかとも思ったが、アトリにとっては自分の能力を十二分にも発揮できる充実した場だったのだろう、イカルはそう思い、少し良かったと思った。
指先で少し操作すると、そこには山崎リサに関する情報が、尽きることのない泉のように、後から後から湧き出してきた。ひと一人分だけとはいえ膨大な情報量だ。
一つ一つ見ていくとキリがないので検索した。何年何月何日、自我のどこそこに外部からの侵入があって、今、その侵入物はどこにある、という情報が次々に画面上に浮かび上がってくる。すべてがすべて凪瀬タカシの情報ではない。バグであるかもしれないし、時空の歪みから紛れ込んだゴミかもしれない。
選別し、タカシの情報を更に詳細検索していく。今、彼はどこにいるのか、それはすぐに見つかった。この世界でD地区と呼ばれている、西端の地域にある大きな施設の一点に反応があった。
すぐにタカシがいる場所を拡大して表示した。ただの地図だったが、建物内部の構造まで見ることが出来た。
タカシだろう一点の周囲はある程度、空間があった。しかしそれほど広がりがなく、狭い部屋に閉じ込められているようだった。おまけに、その部屋の周囲は、霞みがかっているようにぼやけていた。それは何かの障害物がある証だったが、動いている霞みもあり、そのほとんどが、人の存在を表していることが見て取れた。
ナミはもちろん知らなかったが、先月の委員たちによるアント掃討作戦によって、捕縛された人々が拘置所の中に多数収容されていた。その収容能力を遥かに超える容疑者の多さに対して、刑務官も総動員されており、所内は、空調を凌駕する人いきれで空気が重くなっていると感じられるほどの密度で、人々がひしめき合っていた。
ナミはその建物のある場所まで空中を飛行していった。時刻は未明、辺りはかなり薄暗かったし、人影もなく、更には高速の移動でもあったので彼女の姿を認識する人は誰もいなかった。ただナミは、端からそんなことを気にするつもりもなかった。あたしはあたしがするべきことをするだけ。それで他の人がどう思おうが、自分には関係ない。彼女の基本的な行動指針だった。
その施設群は高い塀に囲まれていた。その塀の上に監視台が四か所設置されている。どうみても犯罪者の収容所だった。そんな所に収容されるなんて、いったいあの人は何をしたのだろう。ナミは空中で停止して、その施設群を見下ろしながら思った。
さて、どうしたものかしら。彼女は基本的に人ごみが嫌いだった。空間転移の能力を使うことも難しい。それに彼女の圧縮能力も前面に集中して、その間、正面以外は無防備になってしまう。そういった諸々の点で、その人だらけの施設の中に入る気になれなかった。
彼女が思案を巡らしている間に、塀にある大きな鉄の扉が開いて、白い服を着た集団がわらわらと外に出てきた。五十人に満たない程度の数だったが、東側に向けて駆けていった。途中でいくつかの集団に分かれ、更に細分化して散らばっていった。
そのうちの三人が、飛んでいるナミの下付近に移動してきて、立ち止まると周囲を警戒しはじめた。ナミはいったんその委員たちから離れた場所に降り立ち、足元にあった鶏卵ほどの大きさの石を拾って、再び空中に飛び立ち、その委員たちの後方にその石を投げ落とした。
一人の委員が、自分の背後で立った物音に気づいて身構えた。そして他の委員たちに一声掛けてから、石が落ちた場所に銃を構えながら移動していった。ナミはその委員を上空から追って行った。その手にはコンクリートブロックが一片抱えられていた。ゆっくり下降して委員の頭のすぐ上に移動した。
ここらへんでいいかしら、そう思うとナミはブロックから両手を離した。ガスンという音とともに委員は意識を失い、前方へと倒れていった。
おい、どうした、という声とともに仲間の委員がやってきたが、その時にはもうその場に人の姿は見えなかった。
午前四時。
発光石の光は、真夜中でも微かに都市中を照らしている。そんな、暁闇の中、イカルは、B地区セントラルホールでエレべーターを降り、同地区の西側地域に向けて走っていた。もちろんエスカレーターでも行けるが、なるべく自分の位置情報を残さないために、走ることにした。
B地区は、東から、B3区画、中央部、B4区画の三区画に、大きく区分されていた。更に中央部は、北から、セントラルホールを有するB1区画、シティを有するB2区画、そして住宅が密集するB5区画とに細分化されていた。
イカルは間もなくセントラルホールを抜け、B4区画に入るところだった。
そのB地区の西側に、南北にのびている区画の南端に、彼の目指している高台広場があった。
イカルは、私服の運動着に全身を包み、大きめのナップサックを背負っていた。運動着は濃い灰色だった。なるべく人に気づかれずに移動するために地味な色を選んだ結果、その服を着ることに決めた。
高台広場にはまだ距離があったが、走れば五時には間に合うはずだった。
イカルは更に走りながら、この自分の選択が本当に正しいのかどうか自問し続けた。アントの計画が失敗すれば、いや成功したとしても、今、自分が手にしている立場や職や住居などのすべてを失うことになる。更には首脳部の方針に逆らったために、反逆者として手配されてしまうだろう。
“そうなったら、ツグミは何て思うんだろうな”彼女を抱きしめた時、感じたぬくもりをその手に思い出しながら、イカルはただ走り続けた。
目前の建物の間から、高台が見えるようになった。高台とはいえ、地下空間のことである。高さはビル三階分ほどしかない。だからすぐにイカルはその高台の上に到着した。
そのサッカー場ほどの広さもない広場には、彼の他にはまだ誰もいなかった。奥には地区外壁が岩肌をむき出しにして、頭上まで伸びていた。
彼は目立たないように外壁のそばに移動して、そこに座って待つことにした。彼は左腕の腕時計のパネルを、指先で触った。パネルに現時刻が表示された。もうすぐ五時だった。
次第に、彼の全身を、緊張感がむしばみはじめていた。このまま誰もこなければいい、そう思いもした。もし時間になって誰も現れなければすぐに引き上げよう。そうすれば普段の生活に戻れる。何もなかったこととして、目と口を閉じ、耳を塞いで生活すればいい。納得出来ないことにも目を背けていれば、平穏な生活を送ることが出来る。そうすればツグミともいつまでも一緒にいることが出来る・・・。
突然、彼のいる場所に近い外壁が光った。彼が視線を向けるとその部分の外壁が透明化していた。光っているように見えたのは、外壁内部の灯りが外に漏れ出していたためだった。透明化した壁の中には、数名の男女の姿が見えた。彼はとっさに身を隠さなくては、と思った。しかしそう思ってもこの高台には身を隠す場所はどこにもない。彼は透明化した外壁に、背を向けて走り出した。すぐに透明化した扉が開いた。
「待ちたまえ、イカル君」
名前を呼ばれてイカルは立ち止まり、振り返った。扉から出てきた男たちは顔を布で隠すようにおおっていたが、その中の一人が布を顎の下までおろして顔を現わした。
そこには彼のよく知っている顔があった。
三年前、彼とツグミは頻繁に病院で身体を調べられた。数多いる地底生まれの子どもたちの中で彼らだけが、特異体質、だったから。
彼らは、ケガレに対してわずかながら耐性を持っていた。それがどうしてなのかもちろん彼らには知る由もなかったし、他に知っている者もいなかった。だからあらゆる検査を用いて詳細に調べられた。
その検査はB地区にある中央病院でほぼ三人の医師によって行われた。
クマゲラを筆頭に、セキレイという若い男性医師とマヒワという女性医師の三人が頻繁に彼らを呼び寄せては検査を行った。
その検査が続いた期間の中で時々、その医師たちはイカルに対して検査とは関係のない話をすることがあった。お方様の話、地上の話、ケガレの話、そして選ばれし方様の話。その話の内容から日を追うごとにイカルは、その医師たちがこの地下都市における反社会的思想に染まっているのだと、気づきはじめた。
そして今では、はっきりと反社会的組織に属していると察していた。
その三人の医師のうち、セキレイとマヒワの姿がそこにはあった。
「来てくれると思っていたよ。ある人から来るかもしれないと聞いていたが、来てくれて良かった。これで我々にもまだ希望が残ったよ。とにかくついてきてくれ。詳細は移動しながら話すよ」セキレイが朗らかな表情をして言った。
ある人というのがモズ隊長であるとは思ったが、立場上、名を伏せているのだろう、イカルはあえてそこには触れなかった。
二人の医師の他には三人の男がいた。イカルを含めて六人は、セキレイの誘導でなるべく人家のない道を選んで進んだ。極力、音が立たないように気をつけながらも駆け足で進んだ。周囲に人家のない、見晴らしのいい場所に着くと、移動を続けながら、少しずつセキレイは状況と作戦計画を話しはじめた。
この計画には彼らを含め、十二人が参加しているとのことだった。まだ他にもアントの構成員は残っているらしいが、種々の理由で今回の作戦には参加しないようだった。
クマゲラ先生は?イカルは訊いてみようかと思ったが、その前に、セキレイが今回の作戦にクマゲラ先生は参加しない、と打ち明けた。僕たちがいなくなっても替えがきくけど、クマゲラ先生がいなくなったら助かる命も助からなくなっちゃうからね、冗談めかしてセキレイが言った。僕たちがこの作戦で大けがをしても、きっと彼が助けてくれる、とも言った。
イカルたちが住むD地区の外区画は、基本的に縦横に穴を掘っていき、その枝分かれした穴の先がそのまま居住空間になっていたが、その他の地区や区画は、とてつもなく大きな、ひとつの穴の中で区分けされていた。その広い空間の中に各戸、基本的に石造りの建造物を建てて人の住まいとしていた。
そんな石造家屋の中にある、見た目、廃屋にしか見えない、半ば崩れかかっている一軒の家の中に彼らは入っていった。
中に入ると意外と片づいていた。普段から彼らが人目を避けつつも使用していたのだろう。
セキレイは石のブロックを組んだ簡易な机の上にタブレットを置いてイカルの前に映像を映し出した。それはこのB地区の地図。セキレイが地図上を指で示しながら、静かな声で説明をはじめた。
「目の前の通りから一本奥に入った通りの下を、エスカレーターが通っている。あと三十分後に選ばれし方様を連行した一団が通る予定だ。この地点を通過する際、その前後の地点で別動隊が煙幕を張ることになっている。知っての通り、ケガレ対策のために、エスカレーターやエレベータ―は煙に敏感だ。煙幕を張ってすぐに、エスカレーターは動きを停めるだろう。もちろん人体に害を及ぼす危険性がない程度の量だが、煙幕のために、かなり呼吸はしづらくなり、中にいる者たちは息苦しくなる。それに遮蔽壁も閉じてしまうだろうから移動も出来ない。そこで非常通路を通ってすぐ目の前、この地点に脱出してくるはずだ。我々はそこで待ち構えて、委員たちを拘束し、選ばれし方様を奪還する、そういう計画だ」
セキレイが画像上に指し示す場所は、目の前の通りから横道を入ってすぐの所だった。うまくいけばいいけど、聞いていてイカルは思った。何か危うさを感じざるを得なかった。
「もし、委員たちがこの脱出口を使わなかったら、もし委員たちが襲撃を予想して、抵抗してきたらどうするんですか?」
イカルは計画に水を差すつもりはなかったが、大切なことなのであえて訊いてみた。
「それは・・・、この計画を予定通りに遂行するしかないんだ。計画通りに進めればうまくいくはずなんだ」
セキレイは苦渋の表情をして言った。彼らも不測の事態をいろいろ考え合わせたのだろう。しかし時間的に差し迫り、人的にも充分でない現状では、状況の変化に対応する余裕などあるはずもない。だから計画通りに進むことを期待するしかなかった。イカルは察してそれ以上、その類の質問をしないよう自分を抑制した。
「君はアトリ君と仲が良かったんだよね」
唐突にセキレイの後方にいた男性が声を発した。
「ええ、僕は彼のことを親友だと思っていました」
「彼も間違いなく、君のことを親友だと思っていたよ。いつも君のことを、しつこいくらいに話して聞かせてくれたから。だからここにいるみんなは、君にはとても親近感を持っている。それに期待もしている。アトリ君が、君がみんなを地上に導いてくれるって言っていたからね。あんまりしつこく言うから、今じゃあ、みんなも、そうかもしれないって思っちまっているよ。だから君にとっては、初対面の者もいて、不安が多いかもしれないけど、俺たちは君を、本当の仲間だと思っている。信用してほしい。俺たちは間違いなく、君の味方だ」
アトリは、自分の胸内に渦巻く意見や想念を無遠慮に周囲にまき散らす。それが正しいと心の底から思い、信じて疑わない。確かな知識や情報に裏づけられているためにブレようがない思いを、そのまま真っ直ぐに周囲の人の心に投げつける。何度でも、その心に届くまで。
アント内部にいるアトリの様子が目に見えるようだった。時の経過とともに反社会勢力として、人々に冷たい視線を向けられていく人々に、これが正しいと屈託のない笑顔とともに持論を高らかに歌い上げる。まったく自分の説を疑うことがない、自分の説が正しいという自信しかない、そんな口調で人々の心に言葉を突き立ててくる。
きっと水を得た魚のように嬉々としてみんなを感化していたのだろう。アントに入ると聞いた時は、やはり止めようとも思ったし、考え直すように説得出来ないかとも思ったが、アトリにとっては自分の能力を十二分にも発揮できる充実した場だったのだろう、イカルはそう思い、少し良かったと思った。