思惑の中(5)

文字数 2,386文字

 クマゲラはビルから歩き去っていく父親の姿にちらりと視線を向けた。
 モズは振り返ることもなくクマゲラに背を向けたままエスカレーター乗降口に向かって行った。
 十年前までは口うるさいくらいに干渉してきた。協調性が豊かで、勉学に秀で、小さい頃から父親の跡を継ぐことを望んでいた兄に比べれば、どうしても出来が悪く見えたのかもしれない。
 父親の前では弛緩することは許されない。父親の目に次男の欠点や改善すべき点は数限りなく存在するかのようだ、今までクマゲラはずっとそう感じていた。だから、人の役に立つことができる自分になりたかった。決して父親のためではなく、ただ自分が自分という存在を肯定できる、そのために。
 クマゲラは、兄のように父親を見習って、兵士になろうとは思わなかった。また委員になりたいとも思わなかった。
 十年前、ケガレが襲撃してきた時、兵士も委員も対抗する力とはなり得なかった。彼にはどちらも、人の無力さを象徴する存在に思えた。だから兵士や委員になるつもりは、微塵もなかった。考えた挙句、人の勧めもあって、医療を志すことにした。医療でならケガレに対抗できるかもしれないと思っていた。ケガレに襲われても治癒させられれば、ケガレは脅威ではなくなる。
 クマゲラの脳裏に、悔恨と苦悩に彩られた、十年前の光景が浮かび上がった。

 その日、クマゲラは家の地下室にいた。そこは備蓄食料や工具やめったに使わない工作機械などが収納され、ほぼ倉庫として使われていた。
 クマゲラは一人になりたい時によくここに来た。その時も、誰にも邪魔されないように内側から扉に鍵を掛けて、クッションを持ち込み、音楽を掛けながら本を読んでいた。
 最近、読みつづけていたお気に入りの本だった。物語は佳境に差し掛かっていた。だから今日は一気に読みたかった。どっぷりその世界に浸りたかった。誰にも邪魔されたくなかった。
 突然、扉をノックする音が聞こえた。どうせ母さんだ、と胸の中でつぶやいた。
 母親は父親ほどではなかったが、口うるさかった。しかし最近、それも父親に激しく叱られることを回避させるために、わざと先手を打って言ってくれていることに気づきはじめた。でも今日は父親は外地、街の外を警備しているはずだった。帰りは遅くなるだろう。早くても日没まで帰ってくるはずがなかった。だから彼はノックを無視した。いつもより激しく叩く音が地下室中に響いていたが、音楽に混じっていたせいもあり、努めて気にしないことにした。やがて、ノックの音が、消えた。
 いつの間にか眠っていた。自分がどれだけ眠っていたのか、時計を見て確認した。もう日没の時間だった。父親が帰る前にここを出なければ、彼は本やクッションを手にして出口に通ずる階段を上がり、鍵を開けて扉に手を掛けた。
 扉は開かなかった。
 その扉は、疫病の蔓延や戦争の勃発など、もしもの時に備えて、地下室を密閉出来るように重厚に、精工に作られていた。だから普段でも身体を当てて押さないと開かなかったが、その時はいくら肩を押し当てて、力を込めても開かなかった。
 扉の向こう側に何か重いものが置かれているように感じられた。呼んでも出てこないので、母親が自分を懲らしめるために、何か重しでも置いたのかと思った。少し腹が立った。子どもじみたことをする。意味のないことをする。彼は更に体重を掛けて扉に当たった。少し扉が開いた。そのまま全身を使って扉を押した。ゆっくりと扉が開いていった。半分ほど開いた頃、彼は、扉の外に出た。
 彼の持っていた本とクッションが床に落ちた。
 大きく目を見開き、一瞬の間、固まっていた。彼の視線の先には、横向きに倒れている母親の姿があった。彼のいる方とは逆向きに倒れていたのでその表情は見えなかった。
「母さん」短く呼び掛けながら屈んで母親の肩をつかむ。そして仰向けになるようにその肩を引いた。
 力なく、母親の身体は、ごろりと回転した。
 最大限に恐ろしい災いに見舞われただろうことが予想されるほどの、実際見なければ想像もつかないような苦悶の表情が、その顔に貼りついていた。
 彼はその場にへたり込んだ。そのまま動けなかった。彼は察した。母さんはさっき俺を叱ってたんじゃない、俺に、助けを、求めていたんだ・・・。

 クマゲラのすぐ横に患者を乗せたストレッチャーが、数人の救急隊員によって運ばれてきた。救急隊員が手首に着けた機械に映し出されている情報を読み上げた。
「治安部隊の兵士です。認識番号05・・・」
「認識番号はいいから。どうせ覚えられない」
 クマゲラの大きすぎる声に、救急隊員は番号を飛ばして次を続けた。
「通称キビタキ。B3区画でケガレと交戦中、意識を失ったようです。目立った外傷はありません。脈、呼吸は安定してます」
「大した事はなさそうだな。しかし念のため中央病院に搬送してくれ」
 患者に視線を送りながら言った。クマゲラもB3区画でケガレとの戦闘があったことは聞いていた。ほぼ全滅だったことも。きっと凄惨な場景を見続けて卒倒してしまったのだろう。無理もない。しばらく安静にするしかないだろうな、そう思いつつクマゲラはふとキビタキの顔色が浅黒く、生気がないことが気になった。脈と呼吸が安定している割に、あたたかみが感じられない。人工的な感じさえする。
 クマゲラは自分が夜勤明けで休むことなく働いて、きっと疲れが溜まっているせいだと思った。そのままキビタキから目を逸らした。と、その視界の端に、かっと見開かれた異様な目が、見えた気がした。
 クマゲラはとっさに向き直った。キビタキの目は閉じたままだった。白目のない真っ黒い目が見えたような気がしたが、やっぱり疲れているんだな、そう思いつつ再び診察に戻っていった。
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