深層の中(8)

文字数 4,361文字

 この都市のエレベーター通路には、一定間隔で凹みが設けられている。エレベーターが警報発令などの非常時に停止する場合は、救急車両の運行や事故防止のためにその凹みに移動することになっていた。だから通路内には障害物はなく通行には何の支障もないはずだった。
 車輪が回りはじめた。ごくゆっくり。そして急に停まった。また回りはじめた。それを何度かくり返してから、ようやく救急車両は前進をするようになった。遅々として進まない車両、進んでは停まるのくり返しで、身体を揺すられる。その車両に乗り込んでいた兵士たちは次第に不安にさいなまれはじめた。もしかしたら自分は乗ってはいけない車両に乗って、任せてはいけない運転手に自らの命を任せてしまったのではないか。その場にいた誰の喉にも言葉が出掛かっていた。しかしみんなぐっと抑えつけていた。誰かが何かを言えば一気に車両内が言葉であふれて収拾がつかなくなりそうだった。それにもうエレベーター入り口は目の前だった。誰もが固唾を呑んで成り行きを見守りながら、覚悟を決めた。
「エレベーター昇降口に入ります」
 アビが全員に向かって言いながら前面のタッチパネルを操作した。車両前方が入り口に入っていく。車両が傾きはじめる。車両の両側から何本か足が伸びた。その先には車輪がついていた。その伸びた車輪がエレベーター通路の壁面に当たりブレーキを掛けながらゆっくりと進んだ。車両はますます傾いていく。
 兵士たちは身体を固定できる者は固定し、固定できない者は何かにつかまっていた。通常この救急車両は運転席と荷台との間に仕切りはなかったが、こういう時のために間を壁で遮断することもできた。アビはそのことをおぼろげに覚えていたので、タッチパネルを操作して運転席を荷台から隔離した。
 車両は尚も傾いた。後方から雑多な物が運転席に向かって転がってくる。更に傾いた。背後の壁に物が衝突して運転席の空気を震わせる。
 助手席に座っていたノスリは、その場にいることを後悔していた。目の前、フロントガラスから暗い穴が遥か下まで伸びているのが見える。救急車両のライトが穴を照らしていたが、それでも明かりが奥にいくほど闇に溶かされて、果てが見えない。そのまま呑み込まれてしまいそうな感覚。どう見ても明るい予感がみじんも感じられない深層に伸びた穴だった。
 そして最後にガタンと衝撃を感じると同時に、車両は一気に速度を速めて穴の中に落ちていった。

「動くな」
 独居房に走り込んできた三匹の黒犬に向かってルイス・バーネットが命じた。黒犬たちの動きがピタリと止まった。しかし通路からは次々に新手がやってきている気配を感じた。目の前の看守ももうすぐ動きを再開するだろう。ルイス・バーネットはすばやく考えを巡らせた。
「凪瀬タカシ、行くぞ」
 ルイス・バーネットはタカシに向かって再度手を伸ばした。今、この機会を逃したら状況は更に厄介になりそうだった。タカシはその手に自分の手を伸ばそうとした。しかし途中でためらった。何かの思考ではなかった。彼の根底の部分にある何かが彼の動きに制限を加えていた。
 くそ、まだこの世界に未練があるのか、ルイス・バーネットは伸ばした手を戻して看守の方に向き直った。状況的に抵抗のある人間を連れて移動する余裕はなさそうだと判断していた。
「我が言の葉に寄り給える御霊の力により、我が唱えし(ことば)(なんじ)現実(うつつ)と成る。汝のすべての力を、汝と同類であるケガレたちを撃退する力となせ。この室屋に入り来たらんケガレたちの命を奪いつくせ」
 ごく短い言霊だった。言霊は基本的に言語を理解する相手にしか効かない。しかし今までも命じて動きを止めることができていた。ケガレは言葉を理解している。ルイス・バーネットはその点を察して言葉を掛けていた。
 言霊を掛けられた看守は低くうめいていた。身体が震えていた。ルイス・バーネットはタカシを見た。一度、言霊を掛けた相手にもその言霊が解けるまでに再度掛けることはできる。しかしそうすると先に掛けた言霊に上書きする形になるので、先の言霊の効力が消えてしまう。現状それをするべきではなかった。今、タカシに掛けている言霊の効力が消えてしまえば、タカシはこの世界を出て行く事に抵抗の限りを尽くそうとするだろうから、逆効果でしかなくなる。
 看守の身体がかすかに動きはじめた。命令の効力が間もなく解けそうだった。看守の背後から何匹かの黒犬と円盤が出現した。看守の身体が動いた。振り返りHKIー500の銃口を黒犬たちに向けた。
 エネルギー弾の破裂により飛び込んできた黒犬が一匹消失した。
 その破裂の残像が残る中、ルイス・バーネットの身体が光り、瞬く間に巨大化した。
 タカシの見上げる目の前で、その光が収まるとそこには、かなり前傾姿勢になっていたが、背を伸ばせば体長三メートルはあろうかという灰色の毛並みを有する巨大なクマの姿が現れた。
 タカシは思わず座ったまま後ずさった。虚無感に包まれている現状でも、こんな巨大で獰猛そうな獣を目の前にすると本能的に恐怖を感じてしまう。
 迫りくる黒犬たちを前足で軽くなぎ倒し、消滅させてから、一声、この深層牢獄全体を揺るがすような咆哮を上げた。

 ただ落ちている感覚だった。走行している感覚でも、移動している感覚でもない。ただ重力の慣性にしたがって地下深くに向かって暗い穴の中を落ちているようにしか感じられなかった。
 ノスリは身体中の穴という穴が縮み上がり、身体が浮いている感覚を抱きながら運転席のアビへと首を巡らせた。その顔は目を見開いたまま固まっている。放心状態になっているようにも見える。
「アビ、大丈夫か?」
 口の中が渇いていた。アビは唾を呑み込んでから、ノスリの声に、大丈夫です、と答えた。しかし本当に大丈夫なのかは正直、彼女にも分からなかった。
 落ちはじめてから一切、動力は使っていない。逆にブレーキを掛けようとしているが、落ちる速度は一向にゆるまる気配がなかった。さっきからブレーキレバーを引いているが、文字通り浮足立っている感覚で踏ん張りが効かず、効き目が弱かった。間もなく道は幾度か折れ曲がり、更に地下深くに進んでいくはずだった。その曲がり角は特に操作をしなくても横に伸びた足が曲折を感知して自然と曲がれるはずだった。しかしそれも速度が超過している場合はどうなるのか、彼女にも分からない。
 車両後方に乗り込んでいた兵士たちは、身体を固定した者以外は宙に浮かんでいた。ツグミも必死に機材に捕まっていたが、その足は宙に浮かせる以外になかった。
「アビ、スピードを落とせ」
「大丈夫か、おい、アビ、大丈夫なのか」
「もうすぐ曲がり角だろう、スピードを落とせよ、アビ」
 同僚のイカル班の班員たちが運転席に向かって口々に声を掛けた。その声にアビは今、やってるんだってば、と思いつつ更にブレーキレバーを引いた。最初の曲がり角はもう目の前だった。
 少しブレーキが効いて、速度がゆるまった頃に最初の曲がり角を迎えた。救急車両は運転席部分と荷台部分の境目から荷台最後尾までの何か所かが少しずつ折れ曲がるような仕様になっており、その部分々々を曲折しながら、多少最後尾を壁面にこすりながらも角を曲がり切った。
 荷台部分に乗っていた兵士たちは車両の外側に向かって強制的に移動させられた。ツグミは機材に捕まって何とか他の兵士たちと重なって片側に寄っていくことは避けられたが、その分、身体のあちこちからするどい痛みを感じていた。ツグミは思わずアビに声を掛けそうになったが、せっかく後輩が頑張っているのだからと思い、声を掛けずに耐えることにした。
 それから救急車両は更に曲がり角を曲がり、兵士たちは右に左にと転がされ、飛ばされていった。その頃にはノスリはすっかり言葉を失っていた。ただ、ああ、とか、うう、とか、おお、とか叫び声ともうめき声ともとれる声を漏らすばかりだった。アビはその声をうるさいと思ったが、そう言ってしまうわけにもいかないので我慢した。
 しばらくして視線の先に少し明るい場所が見えてきた。位置的にもそこが終点である深層牢獄の入り口に間違いなかった。そこには直線で降り、曲折して横方向に少し進んで停まるはずだった。停まった先には牢獄入り口に似つかわしい重厚な扉があるはずだ。
 最後の直線は長かった。次第々々に速度が増していく。ずっと緊張して力を込めすぎたせいか、ブレーキレバーを持つ腕に段々力が入らなくなってきた。握力も弱くなってきたのか抵抗して反発しようとするレバーを制するのが難しくなってきた。
「指揮官、ブレーキを抑えてください!早く」
 アビの叫びが助手席にいたノスリの鼓膜に響いた。ノスリは一瞬、慣れていない呼ばれ方が自分のことだとは気づかなかったが、ここにはもう自分とアビしかいないし、今この臨時の隊の指揮官は確かに自分だったことに思い当たり、すぐさま、よし、と答えて自分のシートベルトを外した。少し浮いている感覚を覚えたが、ノスリの身体は他の隊員より重いせいか、重力がよく作用してそのままフロントガラスに落ちていった。ノスリはそのままフロントガラスの上を這うようにして運転席側に移動した。牢獄入り口が目前に迫っていた。
「早く、早くしてください!」
 アビが歯を食いしばったままで声を出した。力いっぱいレバーを引いても一向に速度が弱まらない。自分の力では、もうどうしようもない。
「分かっている!」
 ノスリがレバーに手を伸ばした。必死に身体を這わせて移動しながら伸ばしていく。指の先がレバーに触れた。
 牢獄入り口は本当に、もう、すぐ目前だった。ノスリの両手がレバーをつかんだ。ノスリは足を踏ん張ってレバーを押した。アビも最後の力を振り絞ってレバーを引いた。とたんに車両の両側から凄まじい摩擦音が周囲を圧しながら鳴り響いた。荷台に乗っていた兵士たちは今までの浮いたような感覚が急に消えて突如重力が戻ってきたので何人かが体勢を維持できずに倒れ込んだ。
 救急車両は最後の角を曲がり切った。しかしそこで停まりきれずにそのまま分厚い扉に向けて突っ込んでいった。
 ドオオオオオーーーーーン!
 凄まじい衝撃音を立てながら救急車両は鉄扉に衝突した。
 衝突の瞬間、衝撃によって鉄扉は観音開きに開かれ、救急車両のフロントガラスが粉々に割れた。
 アビは身体にシートベルトが食い込む痛みを感じながら、フロントガラスが割れると同時にそこからノスリが外に放り出される様子を見た。
「指揮官!」
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み