忘我の中(2)
文字数 5,457文字
白い塔が光り輝いた。
普段の優しく柔らかな光ではなかった。
サーチライトのように投射するという光だった。その光が全方位に向かって放たれていた。
治安本部にいた兵士たちは突然、窓から注がれてきた強い光にとまどった。またこの都市の崩壊を予感させるような異変が起こったのかと思った。しかし光は放射されるだけだった。白い塔をはじめ、発光石のすべてが強い光を放っていた。
その場にいた委員たちや本部職員たちは、ただ立ちつくして、その光を眺めていた。
モズは、この光はこの世界の状況が、いちじるしく変化する前兆だと、理由はないが察した。その変化の行きつく先が、良い方向なのか、悪い方向なのかは分からない。ただ、もしかしたら、この瞬間に立ち会っている自分たちが、多少なりとも良い方向へ軌道修正することができるのかもしれない。しかし今、自分は拘束されている。歯噛みするほどに気が焦れた。どうにかこの拘束から逃れて指令を出さないと。これからの状況次第で自分の死に場所が見つかるかもしれない。十年前、見つけそこなったその場所を。
ケガ人であふれた病院内に、強い光が窓という窓から注がれた。
クマゲラは治療室でケガ人の治療に集中していたため、その光に気づかなかった。
しかしあわてて治療室に入ってきた女性看護師から、光に当たった重篤患者が意識を回復した、また他のケガ人にも治癒の傾向が見られることを伝えられて、初めて廊下の窓に駆け寄り白い塔を眺めた。
これは救いなのか、混乱の終結を意味しているのか?それとも新しい破壊の前兆なのだろうか?あまりの光の強さにいろんな思考が脳裏を駆け巡った。しかし自分には治療を待っている患者がいる。考えている暇はない。
「移動できる患者は、すぐにこの光が当たる場所に移動してやってくれ。移動できない患者には発光石を持っていって光に当ててやれ」
この病院内にもいくつか発光石が設置されていた。入り口ホールの照明替わりに天井に埋め込まれていたし、廊下に飾りとしても置かれていた。捜せばすぐに見つけられるはずだった。
クマゲラは今、自分がいるこの場所、この時間が、この世界の大きな変化の上にあることをしっかりと脳裏に刻みつけるべく、窓の外を凝視した。兄や母を亡くした十年前の変化に続く、この変革の時をジッと見据えていた。
クイナ班は全員で、B3区画地上連絡通路入り口の鉄扉を警備していた。
その時、彼らは、まさに目がくらむような光に包まれた。何が起きたのか誰にも分からなかった。ただ目をつむって、その光の放射に耐えるしかなかった。やがて光はやんだ。その光が白い塔から放射されたものだとは分かったが、それがどういう意味を持っているのか分からずに、全員、言いようもない不安に駆られていた。
班長であるクイナは、中肉中背で地味な顔つきをした男だった。その外見の印象そのままに、堅実に物事をこなす男だった。いつもするべきことを淡々とこなしていた。だから特別な成果を期待されることは少ないが、周囲からは常に厚く信頼される男だった。
彼は至急本部に状況確認をするべきだと思い、そう指示しようとした。が、その時、急に鉄扉の奥から、とてつもなく深く大きな穴から吹き抜ける、大量の風が起こしているのかと思うほどの重低音が響いてきた。
「総員、攻撃用意!」
クイナは不安に駆られて叫んでいた。全員が銃口を鉄扉に向けて並び立った。重低音がどんどん近づいてくる。足元が揺れ出した。周囲が小刻みに震えている。
来る、クイナは思った。大丈夫だ、この鉄扉は分厚い、破れるはずがない。
突如、激しい衝突音が辺りを圧した。鉄扉の真ん中が大きく突出した。
更に激しい衝撃音。まさか、クイナは思った。目の前の鉄扉が大きくこちらに向かって変形してくる
どおおおーーーーん
再び衝撃音。
「総員、退避!逃げろ」
自分たちの手に負える事態ではない。とっさにクイナは悟った。そしてあわててその場から離れようとした。でも遅かった。
次におとずれた衝撃音とともに、もろくも鉄扉は吹き飛ばされた。二人の班員がその鉄扉に身体を打ち砕かれた。残った班員が殉職してしまったであろう仲間の名前を叫んだ。その瞬間、鉄扉がなくなった地上連絡通路入り口から、あまりにも大量の黒い霧の固まりが、突風のように飛び出してきた。
クイナは振り返り、その固まりの先頭に大きな口と赤い両の目をはっきりと認めた。そしてその固まりから発せられる猛烈な熱を感じた。
次の瞬間、残っていた班員はクイナを含めて全員その固まりに呑み込まれていた。
“凪瀬タカシへの加護が増大してる・・・彼の声が山崎リサに届いたってこと?・・・本当に、この二人には、驚かされるわ”
ナミが目を見開いて見つめる中、タカシの両手が白く光っていた。
イカルの全身を白く染めるほどに強く光っていた。
ツグミの全身も白く染まっていた。
コガレたちとその分身は、ますますツグミの背後に、身体を小さくして隠れた。周囲のケガレが霧が風に吹かれるように霧散していった。天井付近に存在したケガレも一気にその色を薄くしていった。
いつしかツグミの身体から、ケガレの放出がやんでいた。
タカシは自分の身体から、どれだけの光が放出されるのか分からなかったが、事ここにいたれば出し惜しみするつもりなど毛頭なかった。そのすべてを放出するために、更に意識を手のひらに集中した。
「イカル、起きろ。イカル、生きろ」
タカシはうめくように言いながら、継続して集中した。すると一瞬、イカルの身体がピクリと動いた気がした。
タカシは、更なる動きがないか、イカルの身体を凝視した。
するとまた小さく一度、動いた。ツグミの目が大きく見開かれた。
「イカル!イカル!起きて、起きてよ!」
イカルの身体がまた動いた。今度は少し大きく。更にまた。また、また動いた。
次第に小刻みに動くようになった。ツグミはイカルの左腕を両手でつかんで名前を呼んだ。
タカシはその様子を見て、最後とばかりに集中力を振り絞ってイカルの身体に向けて気を放った。
イカルの身体の動きが一瞬、止まった。しかしすぐにビクン、ビクンと身体中を波打たせた。そして開いた口から、座っているタカシの頭の高さを越えるほどに、勢いよく黒い液体が飛び出した。
タカシはとっさに喉をつまらせないように、イカルの顔を横に向けた。その口からはダラダラと黒い液体が流れ続けていた。耳や鼻の穴からは、煙状の黒いケガレが立ちのぼり、ただよっていた。
やがてイカルの身体から、ケガレの排出がやんだ。
タカシはその場に尻を着いて座り込んだ。全身に疲労を感じてはいたが、それよりも事をやり遂げた達成感にひたっていた。
「なぁ、ナミ。これでイカルは助かるよな」
タカシは、指と手でイカルの口周りの汚れを拭き取りながら、イカルの名を呼び続ける、ツグミの姿を見ながら言った。
「そうね。どうやら一命は取り留めたようね。でもこの少年の意識が回復するかどうかは分からないわ」
イカルは横たわったまま動かなかった。何の意識も、何の力もその身体には与えられていないようだった。
「ありゃ、ケガレじゃないか。何でこんな所にケガレがいるんだ。やべぇな、こりゃ。イカルたちがもし本当にここにいたとしても、あんなにケガレがいる所にいたら生き残れないだろ。俺たちも早く退散しようぜ」
変形した扉の間から中をうかがった瞬間、目の前に広がった場景を見てエナガが即座にノスリに向かって提言した。
ノスリは、恐怖に心臓をわしづかみにされていた。
自分の意思とは関係なく、足が小刻みに震えていた。
あの時の惨劇を思い出して、足がすくんでいく。
ケガレは、情け容赦なく仲間を手あたり次第に狩っていく。
仲間の苦悶の表情。助けを求める表情。あまりにも未練を残して死にゆく表情。
“ミサゴは俺に助けを求めた。でも助けることができなかった。俺はミサゴを、仲間を見殺しにした。自分だけ生き残ってしまった。なぜあの時、俺は仲間を助けられなかったんだ。俺は、自分が死にたくなかったから、仲間を見殺しにしたんじゃないのか。俺が、俺が殺した。仲間を、みんなを・・・”
「おいっ」
イスカがノスリの肩に手を掛けた。
「大丈夫か?」
ノスリは我に返り、振り返ってイスカの切れ長な目を見た。
「顔色が悪いぞ。やっぱりまだ復帰するのは無理なんじゃねぇか?どっちにしろ撤退しようぜ。早くしないとあのケガレが襲ってくるって。気づかれないうちに撤退しようぜ、早く」
そういうエナガの言葉を聞きながらノスリは思った。
“いや、ここにケガレが存在しているってことは、その下にあいつがいる。間違いない、必ずいる”
ノスリは音が出るほど小刻みに震えている歯をグッと食いしばって、身体ごと振り返り、引き連れてきた兵士たちの顔を見渡した。俺のすべきことはビビることじゃない。仲間たちの仇を討つことだ。
「今から任務を遂行する。俺が先頭を行く。みんな遅れるな。いいな」
言葉よりその目が雄弁に、けっして異論は許さないと語っていた。
ツグミの身体から放出されたケガレは、タカシの発した光によってそのほとんどが霧散していたが、薄く天井をおおうくらいは残っていた。その残存勢力は次第に渦巻き、じょじょに集まりながら固まっていこうとしているようだった。時の経過とともに濃厚で濃密な黒になって頭上をおおっていく。
やがてケガレは渦巻きを終え、固まってただようように右に左に移動をはじめた。まるで何かを捜しているかのような動きだった。
「まずいわね」
ナミは普段よりも更に険しい表情をしていた。
「きっとケガレは山崎リサを探知したのよ。たぶん今まで山崎リサは、ケガレに探知されないように、地下に潜って塔の中に閉じこもって静かに暮らしていたのよ。でも、あなたの願いを聞き入れて、力をあなたに与えた。自分の力を放出した。だからケガレに探知されたのよ」
リサがその持てる力を発揮するとケガレに探知される、そのことはタカシにも心当たりがあった。地上から地下に向かう途中、ルイス・バーネットから自分を守った時に彼女は力を使った。だから地上連絡通路入り口にケガレが発生したのだろう。審判の場でケガレを引き連れてきたと言われたことも、あながち間違いではないように思えた。それに自分が、地上連絡通路入り口に置き去りにされたのは、リサが最小限の力で安全な場所に送り込もうとした結果だったのだろう。一人であんな所に置き去りにされたから、おかしいとは思っていた。
「でもなんでケガレはリサを狙うんだ?イカルたちと同じように、ケガレもリサが生み出したものだろう?ならリサを大切に思うんじゃないのか、イカルたちと同じように」
「このコたちは望まれて生まれてきたけど、ケガレたちはけっして望まれて生まれてきたわけじゃないわ。それだけの違い。だけど決定的な違い。その違いがあるからケガレたちはこの世界を破壊する、崩壊をもたらす存在にしか成り得ないのよ。そして山崎リサの存在を消せば、この世界はもろくも崩壊するわ。だから彼女の所に向かっているのよ」
タカシは立ち上がって、頭上を見上げた。ただようケガレたちを眺めた。
彼にケガレたちの心情を勘案するつもりはない。ただ少しだけ憐憫の色が表情ににじみ出ていた。そして今すぐリサの元に行かないといけない、と思った。ただ、イカルとツグミの姿を見下ろした。この二人を、このままにしておくわけにもいかない。
「どうしてイカルは目を覚まさないんだ?ケガレは体内から追い出したはずだろ?もしかしてもう・・・」
手遅れと言い掛けてタカシは口をつぐんだ。すぐそこにツグミがいる。
「分からないわ。でも可能性として考えられることは、山崎リサはあなたを守ろうとした。そして自分の力をあなたに与えたわ。そしてあなたと同じ魂を持つイカルにもそれが影響した。あなたを守るのと同じように守ろうとした。でも彼はあなたじゃない。彼はあなたほどの力は与えられなかった。だから今回、彼を守ることはできなかったわ。でも、せめて彼の自我だけでも守ろうとしたんじゃないのかしら。彼の自我と身体を分断して、自我だけを包み込んで守ろうとした。結果、目的は達成されたけど、なぜか、何かの理由で、そのまま固まってしまっているんじゃないかしら」
それまでナミはタカシの横、一歩後ろに下がった位置に控えていたが、そう言うとツグミたちの前へと進み出た。
ツグミはもう泣いていなかった。さっきまでは泣いていないと精神をつないでいるものがすべて溶解して、整合性が破壊されて、分裂して収拾がつかなくなりそうだった。だから無意識に泣いていた。非常識なほど、非日常的に泣いていた。でもイカルの体内からケガレが排出された。イカルの身体が動いた。かすかな希望がほのかに灯された。イカルが生きている、それさえ分かればあたしは生きていける。生きていてもいいんだ、と思えた。
「ちょっといいかしら」
ツグミは地にヒザを着いた姿勢でいた。その姿勢のままで声のした方を見上げると、そこにナミが立っていた。ナミはツグミの返答を待たずに話を続けた。
普段の優しく柔らかな光ではなかった。
サーチライトのように投射するという光だった。その光が全方位に向かって放たれていた。
治安本部にいた兵士たちは突然、窓から注がれてきた強い光にとまどった。またこの都市の崩壊を予感させるような異変が起こったのかと思った。しかし光は放射されるだけだった。白い塔をはじめ、発光石のすべてが強い光を放っていた。
その場にいた委員たちや本部職員たちは、ただ立ちつくして、その光を眺めていた。
モズは、この光はこの世界の状況が、いちじるしく変化する前兆だと、理由はないが察した。その変化の行きつく先が、良い方向なのか、悪い方向なのかは分からない。ただ、もしかしたら、この瞬間に立ち会っている自分たちが、多少なりとも良い方向へ軌道修正することができるのかもしれない。しかし今、自分は拘束されている。歯噛みするほどに気が焦れた。どうにかこの拘束から逃れて指令を出さないと。これからの状況次第で自分の死に場所が見つかるかもしれない。十年前、見つけそこなったその場所を。
ケガ人であふれた病院内に、強い光が窓という窓から注がれた。
クマゲラは治療室でケガ人の治療に集中していたため、その光に気づかなかった。
しかしあわてて治療室に入ってきた女性看護師から、光に当たった重篤患者が意識を回復した、また他のケガ人にも治癒の傾向が見られることを伝えられて、初めて廊下の窓に駆け寄り白い塔を眺めた。
これは救いなのか、混乱の終結を意味しているのか?それとも新しい破壊の前兆なのだろうか?あまりの光の強さにいろんな思考が脳裏を駆け巡った。しかし自分には治療を待っている患者がいる。考えている暇はない。
「移動できる患者は、すぐにこの光が当たる場所に移動してやってくれ。移動できない患者には発光石を持っていって光に当ててやれ」
この病院内にもいくつか発光石が設置されていた。入り口ホールの照明替わりに天井に埋め込まれていたし、廊下に飾りとしても置かれていた。捜せばすぐに見つけられるはずだった。
クマゲラは今、自分がいるこの場所、この時間が、この世界の大きな変化の上にあることをしっかりと脳裏に刻みつけるべく、窓の外を凝視した。兄や母を亡くした十年前の変化に続く、この変革の時をジッと見据えていた。
クイナ班は全員で、B3区画地上連絡通路入り口の鉄扉を警備していた。
その時、彼らは、まさに目がくらむような光に包まれた。何が起きたのか誰にも分からなかった。ただ目をつむって、その光の放射に耐えるしかなかった。やがて光はやんだ。その光が白い塔から放射されたものだとは分かったが、それがどういう意味を持っているのか分からずに、全員、言いようもない不安に駆られていた。
班長であるクイナは、中肉中背で地味な顔つきをした男だった。その外見の印象そのままに、堅実に物事をこなす男だった。いつもするべきことを淡々とこなしていた。だから特別な成果を期待されることは少ないが、周囲からは常に厚く信頼される男だった。
彼は至急本部に状況確認をするべきだと思い、そう指示しようとした。が、その時、急に鉄扉の奥から、とてつもなく深く大きな穴から吹き抜ける、大量の風が起こしているのかと思うほどの重低音が響いてきた。
「総員、攻撃用意!」
クイナは不安に駆られて叫んでいた。全員が銃口を鉄扉に向けて並び立った。重低音がどんどん近づいてくる。足元が揺れ出した。周囲が小刻みに震えている。
来る、クイナは思った。大丈夫だ、この鉄扉は分厚い、破れるはずがない。
突如、激しい衝突音が辺りを圧した。鉄扉の真ん中が大きく突出した。
更に激しい衝撃音。まさか、クイナは思った。目の前の鉄扉が大きくこちらに向かって変形してくる
どおおおーーーーん
再び衝撃音。
「総員、退避!逃げろ」
自分たちの手に負える事態ではない。とっさにクイナは悟った。そしてあわててその場から離れようとした。でも遅かった。
次におとずれた衝撃音とともに、もろくも鉄扉は吹き飛ばされた。二人の班員がその鉄扉に身体を打ち砕かれた。残った班員が殉職してしまったであろう仲間の名前を叫んだ。その瞬間、鉄扉がなくなった地上連絡通路入り口から、あまりにも大量の黒い霧の固まりが、突風のように飛び出してきた。
クイナは振り返り、その固まりの先頭に大きな口と赤い両の目をはっきりと認めた。そしてその固まりから発せられる猛烈な熱を感じた。
次の瞬間、残っていた班員はクイナを含めて全員その固まりに呑み込まれていた。
“凪瀬タカシへの加護が増大してる・・・彼の声が山崎リサに届いたってこと?・・・本当に、この二人には、驚かされるわ”
ナミが目を見開いて見つめる中、タカシの両手が白く光っていた。
イカルの全身を白く染めるほどに強く光っていた。
ツグミの全身も白く染まっていた。
コガレたちとその分身は、ますますツグミの背後に、身体を小さくして隠れた。周囲のケガレが霧が風に吹かれるように霧散していった。天井付近に存在したケガレも一気にその色を薄くしていった。
いつしかツグミの身体から、ケガレの放出がやんでいた。
タカシは自分の身体から、どれだけの光が放出されるのか分からなかったが、事ここにいたれば出し惜しみするつもりなど毛頭なかった。そのすべてを放出するために、更に意識を手のひらに集中した。
「イカル、起きろ。イカル、生きろ」
タカシはうめくように言いながら、継続して集中した。すると一瞬、イカルの身体がピクリと動いた気がした。
タカシは、更なる動きがないか、イカルの身体を凝視した。
するとまた小さく一度、動いた。ツグミの目が大きく見開かれた。
「イカル!イカル!起きて、起きてよ!」
イカルの身体がまた動いた。今度は少し大きく。更にまた。また、また動いた。
次第に小刻みに動くようになった。ツグミはイカルの左腕を両手でつかんで名前を呼んだ。
タカシはその様子を見て、最後とばかりに集中力を振り絞ってイカルの身体に向けて気を放った。
イカルの身体の動きが一瞬、止まった。しかしすぐにビクン、ビクンと身体中を波打たせた。そして開いた口から、座っているタカシの頭の高さを越えるほどに、勢いよく黒い液体が飛び出した。
タカシはとっさに喉をつまらせないように、イカルの顔を横に向けた。その口からはダラダラと黒い液体が流れ続けていた。耳や鼻の穴からは、煙状の黒いケガレが立ちのぼり、ただよっていた。
やがてイカルの身体から、ケガレの排出がやんだ。
タカシはその場に尻を着いて座り込んだ。全身に疲労を感じてはいたが、それよりも事をやり遂げた達成感にひたっていた。
「なぁ、ナミ。これでイカルは助かるよな」
タカシは、指と手でイカルの口周りの汚れを拭き取りながら、イカルの名を呼び続ける、ツグミの姿を見ながら言った。
「そうね。どうやら一命は取り留めたようね。でもこの少年の意識が回復するかどうかは分からないわ」
イカルは横たわったまま動かなかった。何の意識も、何の力もその身体には与えられていないようだった。
「ありゃ、ケガレじゃないか。何でこんな所にケガレがいるんだ。やべぇな、こりゃ。イカルたちがもし本当にここにいたとしても、あんなにケガレがいる所にいたら生き残れないだろ。俺たちも早く退散しようぜ」
変形した扉の間から中をうかがった瞬間、目の前に広がった場景を見てエナガが即座にノスリに向かって提言した。
ノスリは、恐怖に心臓をわしづかみにされていた。
自分の意思とは関係なく、足が小刻みに震えていた。
あの時の惨劇を思い出して、足がすくんでいく。
ケガレは、情け容赦なく仲間を手あたり次第に狩っていく。
仲間の苦悶の表情。助けを求める表情。あまりにも未練を残して死にゆく表情。
“ミサゴは俺に助けを求めた。でも助けることができなかった。俺はミサゴを、仲間を見殺しにした。自分だけ生き残ってしまった。なぜあの時、俺は仲間を助けられなかったんだ。俺は、自分が死にたくなかったから、仲間を見殺しにしたんじゃないのか。俺が、俺が殺した。仲間を、みんなを・・・”
「おいっ」
イスカがノスリの肩に手を掛けた。
「大丈夫か?」
ノスリは我に返り、振り返ってイスカの切れ長な目を見た。
「顔色が悪いぞ。やっぱりまだ復帰するのは無理なんじゃねぇか?どっちにしろ撤退しようぜ。早くしないとあのケガレが襲ってくるって。気づかれないうちに撤退しようぜ、早く」
そういうエナガの言葉を聞きながらノスリは思った。
“いや、ここにケガレが存在しているってことは、その下にあいつがいる。間違いない、必ずいる”
ノスリは音が出るほど小刻みに震えている歯をグッと食いしばって、身体ごと振り返り、引き連れてきた兵士たちの顔を見渡した。俺のすべきことはビビることじゃない。仲間たちの仇を討つことだ。
「今から任務を遂行する。俺が先頭を行く。みんな遅れるな。いいな」
言葉よりその目が雄弁に、けっして異論は許さないと語っていた。
ツグミの身体から放出されたケガレは、タカシの発した光によってそのほとんどが霧散していたが、薄く天井をおおうくらいは残っていた。その残存勢力は次第に渦巻き、じょじょに集まりながら固まっていこうとしているようだった。時の経過とともに濃厚で濃密な黒になって頭上をおおっていく。
やがてケガレは渦巻きを終え、固まってただようように右に左に移動をはじめた。まるで何かを捜しているかのような動きだった。
「まずいわね」
ナミは普段よりも更に険しい表情をしていた。
「きっとケガレは山崎リサを探知したのよ。たぶん今まで山崎リサは、ケガレに探知されないように、地下に潜って塔の中に閉じこもって静かに暮らしていたのよ。でも、あなたの願いを聞き入れて、力をあなたに与えた。自分の力を放出した。だからケガレに探知されたのよ」
リサがその持てる力を発揮するとケガレに探知される、そのことはタカシにも心当たりがあった。地上から地下に向かう途中、ルイス・バーネットから自分を守った時に彼女は力を使った。だから地上連絡通路入り口にケガレが発生したのだろう。審判の場でケガレを引き連れてきたと言われたことも、あながち間違いではないように思えた。それに自分が、地上連絡通路入り口に置き去りにされたのは、リサが最小限の力で安全な場所に送り込もうとした結果だったのだろう。一人であんな所に置き去りにされたから、おかしいとは思っていた。
「でもなんでケガレはリサを狙うんだ?イカルたちと同じように、ケガレもリサが生み出したものだろう?ならリサを大切に思うんじゃないのか、イカルたちと同じように」
「このコたちは望まれて生まれてきたけど、ケガレたちはけっして望まれて生まれてきたわけじゃないわ。それだけの違い。だけど決定的な違い。その違いがあるからケガレたちはこの世界を破壊する、崩壊をもたらす存在にしか成り得ないのよ。そして山崎リサの存在を消せば、この世界はもろくも崩壊するわ。だから彼女の所に向かっているのよ」
タカシは立ち上がって、頭上を見上げた。ただようケガレたちを眺めた。
彼にケガレたちの心情を勘案するつもりはない。ただ少しだけ憐憫の色が表情ににじみ出ていた。そして今すぐリサの元に行かないといけない、と思った。ただ、イカルとツグミの姿を見下ろした。この二人を、このままにしておくわけにもいかない。
「どうしてイカルは目を覚まさないんだ?ケガレは体内から追い出したはずだろ?もしかしてもう・・・」
手遅れと言い掛けてタカシは口をつぐんだ。すぐそこにツグミがいる。
「分からないわ。でも可能性として考えられることは、山崎リサはあなたを守ろうとした。そして自分の力をあなたに与えたわ。そしてあなたと同じ魂を持つイカルにもそれが影響した。あなたを守るのと同じように守ろうとした。でも彼はあなたじゃない。彼はあなたほどの力は与えられなかった。だから今回、彼を守ることはできなかったわ。でも、せめて彼の自我だけでも守ろうとしたんじゃないのかしら。彼の自我と身体を分断して、自我だけを包み込んで守ろうとした。結果、目的は達成されたけど、なぜか、何かの理由で、そのまま固まってしまっているんじゃないかしら」
それまでナミはタカシの横、一歩後ろに下がった位置に控えていたが、そう言うとツグミたちの前へと進み出た。
ツグミはもう泣いていなかった。さっきまでは泣いていないと精神をつないでいるものがすべて溶解して、整合性が破壊されて、分裂して収拾がつかなくなりそうだった。だから無意識に泣いていた。非常識なほど、非日常的に泣いていた。でもイカルの体内からケガレが排出された。イカルの身体が動いた。かすかな希望がほのかに灯された。イカルが生きている、それさえ分かればあたしは生きていける。生きていてもいいんだ、と思えた。
「ちょっといいかしら」
ツグミは地にヒザを着いた姿勢でいた。その姿勢のままで声のした方を見上げると、そこにナミが立っていた。ナミはツグミの返答を待たずに話を続けた。