第150話 殺せ
文字数 1,564文字
月龍が近づけばその分、蓮の足が遠ざかる。
逃げているのか、おれから。
何故逃げるのかという問いには、自問よりも先に答えが見えた。お前を嫌っているからに決まっているからだろうと。
あの女は、蒼龍の子供をお前という悪鬼から守ろうとしている。見ろ、自然と伸ばされた女の手が何処を押さえているのか――見るがいい、あの怯え切った目を。
あの女が愛しているのはお前ではない、蒼龍だ。宿った命も、あの男の子供に決まっている。
いいのか。蓮の裏切りを断定したもう一人の自分が、月龍に問いかける。
このままでは蓮があの男の子供を産むことになる。お前は耐えられるのか、と。
――耐えられない。
宙を捉えた目の奥で答える。
頭の片隅で、悪意が嘲笑った。
そうだ、許してはいけない。あの男も、蓮も、その身に宿る命も。
どうしようもないことだ。蓮が身籠ったのは事実で、たとえ月龍が許さないと言ったところで無にすることはできない。
なにも変わらない、変わるとしたら蓮が月龍から逃げて、蒼龍の腕の中に飛び込んでいくくらいだ。
蓮と離されて、生きて行けるはずがない。彼女を失いたくなければ、受け入れるしかなかった。
――なに、簡単なことだ。子供を殺せ。
頭の中に響いた声に、ぞくりとする。
堕胎。命の危険を伴う事柄だった。下手をすれば蓮も死ぬとわかっていて、堕ろせなどと言えるわけがない。
背筋を駆け下りる悪寒に、悪意がさらに囁きかけてくる。
いいではないか。ついでに、あの女も殺してしまえ。
このままではいずれ、蒼龍に盗られてしまうぞ。
否、仮に蒼龍を退けたとしても、今度は他の男が現れる。それを退けても、また別の男。色香に惑わされた男が、次々と現れるぞ。
お前の平安のためには今、あの女を殺しておくべきだ。
簡単だろう? お前が本気で殴りつければ、ほんの一発か二発で死ねる。苦痛も感じさせず、殺せるだろう。
「――殺す――」
呆然と、もう一人の自分に囁かれた言葉をくり返す。
びくんと、蓮のみが竦んだ。
緊張が顔を固くし、身構えているのが見える。腹を庇って見せるのが、月龍の神経を逆撫でした。
そのようなことはできないと、頭の片隅で叫び続けていた理性が、ふっと消える。
「殺す」
今度は、はっきりと舌に乗せた。瞳にも、明確な殺意が浮かぶ。
それは蓮が宿した命と、母体に向けられた狂気だった。
ゆったりとした動作で歩き出す。
月龍が近づく分、蓮も一歩、二歩とよろけながら後退した。
蓮の背中が、とん、と壁にぶつかる。知らぬうちに、部屋の隅にまで追いつめていた。
捕まえてどうするつもりなのか、把握できていない。ただ逃げるから追った、それ以上の意味はなかった。
だが、恐怖のために顔面を蒼白に染めた蓮の姿が、今は憐憫よりも強い怒りを覚えさせる。
「月龍、さま……?」
蓮が発したのは、かすかに震えるか細い声。怯えの中にも、縋るような甘えが見て取れた。
だがそれは、月龍が甘えられることを望んでいると知っているからだ。
蓮はいつも、月龍の動向を探っている。どのように振る舞えば喜ぶのか、そう考えた上での、表面的な甘えにすぎない。
心を許してほしかった。計算された甘えなど、いらない。
それでも甘受してきたのは、蓮をこれ以上怯えさせたくなかったからだ。今は表面的でしかなくとも、いずれ心から頼ってくれるのではないかと期待していた。
一層のこと、すべてを打ち明けてくれればいいのに。
不義を謝罪し、許しを乞うてくれれば――計算などではなく甘えて、それでも傍に居てほしい、そう言ってくれさえすればたとえ蒼龍の子だったとしても愛せるかもしれない。
だが蓮は、月龍を呼ぶときに尊称を欠かさない。なによりそれが、不信を如実に物語る。
ぎりぎりと握りしめた拳を、頭上に振り上げた。
逃げているのか、おれから。
何故逃げるのかという問いには、自問よりも先に答えが見えた。お前を嫌っているからに決まっているからだろうと。
あの女は、蒼龍の子供をお前という悪鬼から守ろうとしている。見ろ、自然と伸ばされた女の手が何処を押さえているのか――見るがいい、あの怯え切った目を。
あの女が愛しているのはお前ではない、蒼龍だ。宿った命も、あの男の子供に決まっている。
いいのか。蓮の裏切りを断定したもう一人の自分が、月龍に問いかける。
このままでは蓮があの男の子供を産むことになる。お前は耐えられるのか、と。
――耐えられない。
宙を捉えた目の奥で答える。
頭の片隅で、悪意が嘲笑った。
そうだ、許してはいけない。あの男も、蓮も、その身に宿る命も。
どうしようもないことだ。蓮が身籠ったのは事実で、たとえ月龍が許さないと言ったところで無にすることはできない。
なにも変わらない、変わるとしたら蓮が月龍から逃げて、蒼龍の腕の中に飛び込んでいくくらいだ。
蓮と離されて、生きて行けるはずがない。彼女を失いたくなければ、受け入れるしかなかった。
――なに、簡単なことだ。子供を殺せ。
頭の中に響いた声に、ぞくりとする。
堕胎。命の危険を伴う事柄だった。下手をすれば蓮も死ぬとわかっていて、堕ろせなどと言えるわけがない。
背筋を駆け下りる悪寒に、悪意がさらに囁きかけてくる。
いいではないか。ついでに、あの女も殺してしまえ。
このままではいずれ、蒼龍に盗られてしまうぞ。
否、仮に蒼龍を退けたとしても、今度は他の男が現れる。それを退けても、また別の男。色香に惑わされた男が、次々と現れるぞ。
お前の平安のためには今、あの女を殺しておくべきだ。
簡単だろう? お前が本気で殴りつければ、ほんの一発か二発で死ねる。苦痛も感じさせず、殺せるだろう。
「――殺す――」
呆然と、もう一人の自分に囁かれた言葉をくり返す。
びくんと、蓮のみが竦んだ。
緊張が顔を固くし、身構えているのが見える。腹を庇って見せるのが、月龍の神経を逆撫でした。
そのようなことはできないと、頭の片隅で叫び続けていた理性が、ふっと消える。
「殺す」
今度は、はっきりと舌に乗せた。瞳にも、明確な殺意が浮かぶ。
それは蓮が宿した命と、母体に向けられた狂気だった。
ゆったりとした動作で歩き出す。
月龍が近づく分、蓮も一歩、二歩とよろけながら後退した。
蓮の背中が、とん、と壁にぶつかる。知らぬうちに、部屋の隅にまで追いつめていた。
捕まえてどうするつもりなのか、把握できていない。ただ逃げるから追った、それ以上の意味はなかった。
だが、恐怖のために顔面を蒼白に染めた蓮の姿が、今は憐憫よりも強い怒りを覚えさせる。
「月龍、さま……?」
蓮が発したのは、かすかに震えるか細い声。怯えの中にも、縋るような甘えが見て取れた。
だがそれは、月龍が甘えられることを望んでいると知っているからだ。
蓮はいつも、月龍の動向を探っている。どのように振る舞えば喜ぶのか、そう考えた上での、表面的な甘えにすぎない。
心を許してほしかった。計算された甘えなど、いらない。
それでも甘受してきたのは、蓮をこれ以上怯えさせたくなかったからだ。今は表面的でしかなくとも、いずれ心から頼ってくれるのではないかと期待していた。
一層のこと、すべてを打ち明けてくれればいいのに。
不義を謝罪し、許しを乞うてくれれば――計算などではなく甘えて、それでも傍に居てほしい、そう言ってくれさえすればたとえ蒼龍の子だったとしても愛せるかもしれない。
だが蓮は、月龍を呼ぶときに尊称を欠かさない。なによりそれが、不信を如実に物語る。
ぎりぎりと握りしめた拳を、頭上に振り上げた。