第155話 敗北
文字数 1,949文字
「ふざけるな!」
叫ぶよりも早く、亮の拳が月龍の頬に叩きこまれる。
立場が逆であれば、殴られた方は吹き飛んでいただろう。けれど、踏み止まる意図もなかったが月龍は微動だにしない。ただ俯いた横顔が、右から左に移っただけだ。
痕跡はかすかに赤くなった左頬と、亮の右拳に残るのみ。
「何故だ。蓮を愛していると言っただろう。幸せにすると誓ったはずだ。なのに何故」
喚きながら、亮は幾度も拳を叩きこんでくる。
顔面を、胸を、腹を殴られながらも、抵抗一つしなかった。
できるわけがない。月龍が蓮を瀕死の状況にまで追いやったのは事実なのだから。
これは罰だ。蓮が受けた痛み、苦しみとは比べ物にもならないだろう。
それでも、蓮を害した月龍に罰を与えるのは、亮が最も相応しい。
「そうか。お前はやはり、蓮を利用していたのだな。身分を求めて近づき、孕ませ――だが商と開戦したことで状況が変わり、考えを改めたか」
「――なにを」
「邪魔になった蓮を捨てようとしたのか。だが蓮に別れを拒まれ、縋られ――疎ましくなって殺そうとしたか」
「違う!」
亮が月龍を処刑すると言うなら、それでもいいと思っていた。けれど、今の言葉を認めるわけにはいかなかった。
「おれが蓮を捨てる? 死を望む? そのようなはずがない。おれは」
「こんなにも蓮を愛しているのに、か。聞き飽きた台詞だ」
無抵抗だった月龍が、手を振り払っても亮は怯えた様子も見せない。憎々しげに目を細め、口の端に皮肉を閃かせる。
「それが本当ならば何故、蓮に暴力を振るった? お前の子を身籠り、その誕生を心待ちにしていた蓮を何故」
「愛しているからこそ!」
遮ったのは、自分の耳にもはっきりとわかる涙声だった。
お前の子。亮が発した言葉に、唇をかみしめて俯く。
「蓮の裏切りが許せなかった」
「裏切り――蓮が? ありえない。おれとのことを言っているのなら、筋違いだぞ」
「違う」
亮のこと、
けれど蓮が、自発的に身を任せた男が他にいることは事実だ。
「蓮はおれだけではなく――蒼龍とも通じていた」
「はっ、莫迦なことを」
「この目で見た。二人が臥牀の上で睦み合っている姿を」
あの光景さえ見ていなければ、蒼龍の言葉にも惑わされずに済んだかもしれない。蒼龍の嘘だと聞き流すことができていれば、このような事態には――蓮を殺そうとするなどという暴挙には出なかった。
俯く頬に、亮の視線が刺さる。月龍の横顔ににじみ出る沈痛の色でも眺めていたのだろうか。
数瞬の間黙った亮は、すぐに鼻を鳴らして笑う。
「百歩譲って、それが事実だったとしよう。そしてお前は、蓮が身籠ったのが蒼龍の子供ではないかと疑ったわけだ」
問いかけとも呼べぬ、断定的な物言いだった。否定もできず、重々しく頷く。
「それで、蓮はなんと言った。蒼龍の子だと認めたのか。あの男の子供を身籠ったから別れてほしいとでも?」
「否――」
「お前の子だ、と言ったのだろう。違うか」
違わない、と答える代わりに、そっと頭を振る。
殺さないで、あなたの子供を――蓮がくり返していた悲痛な絶叫が、耳の奥でこだまする。
腹の子を守りたい一心でついた嘘だと思っていた。月龍に繋がりを感じさせ、手を止めさせたかっただけだと。
それが許せなかった。月龍を騙してまで蒼龍の子供を産みたいと思う気持ちが、裏切りにしか思えなかった。
「ならばなんの問題もないだろう」
月龍が刻む苦渋の表情に気づきもしないのか、亮の声は平然としたものだった。
どちらの子供かわからない、むしろ他の男の子供である可能性が高い状況で何故、そのようなことが言えるのか。
所詮は他人事。そう思っているが故ではないのかと、見当違いな怒りすら湧く。
「父親が誰かなど関係ない。蓮の身に宿ったのは、間違いなく蓮の子だ。愛した女の血を引く存在が、愛しくないはずがあるか」
「――――!」
言葉を失う。
膝が震えた。よろけ、後退した体が卓にぶつかり、力を失って崩れ落ちる。
「もし蓮が、おれの子だと言って駆けつけてくれていたら、おれは喜んで受け入れていた。おれとのことなど半年以上も前のことだ。あり得ないとわかっていても――お前の子だと承知の上で、迎えただろう」
穏やかでさえある口調の中、亮が内包する熱が洩れ出していた。月龍を見下す目には、憎悪だけではなく侮蔑も見える。
「おれを選んでくれた、それだけですべて許せる。傍にあることを望んでくれると言うなら、それ以上のなにが欲しい?」
ああ、と愕然と見開いた目から、涙が溢れ出す。亮を見上げているはずなのに、焦点が合わず、ただただ宙を見つめるばかりだった。