第183話 無害

文字数 813文字


「――すまない」

 蓮を抱きしめる腕に、自然と力が入る。

「おれは――邪魔者はすぐに消える。おれのことなど忘れて、早く幸せになってくれ」

 腕の中に感じる温かさと柔らかさに、目頭が熱に侵される。

「だけど少しだけ――もう少しの間だけ、傍に居させてほしい。あと少しの期間だけでいい、我慢してくれ」

 すまない。つけ加える自分の声に、涙の成分を聞く。
 泣く資格などないのはわかっていた。月龍は加害者だ。蓮には二心があるとはいえ、傍に居てくれることに感謝しなければならない立場だった。
 自覚しているのに、蓮の涙に心が揺らぐ。諦めていたはずが、どうしようもないほどの愛しさがこみ上げてきた。

 蒼龍になど渡したくない。このまま腕の中に収め、抱き潰してしまいたい。この手を離したくない。

 突然抱き竦められて、驚きのあまり硬直していたのか。動きもせず、月龍の背に回されるような形になっていた蓮の指が震えて、力が入ったのがわかった。

 いけない。はっと我に返った。

 無礼を働いた月龍を、押し返そうとしているのだろう。抵抗されるとまた、力ずくで抱き竦めようとするかもしれない。
 痛みを与えるのも、これ以上離れがたくなるのも怖くて、慌てて蓮から身を離した。

「すまない、このようなつもりではなくて――」

 弁明の途中で、床に膝を折る。蓮の足元で首を垂れた。

「泣いてほしくなかった。他意はない。これ以上は触れないと、約束する」

 最後には縋るように蓮を見上げて、無理な作り笑いを顔の表面に押し上げた。

「そんなに泣いては、せっかく綺麗にした化粧が落ちてしまう。今日は蒼龍も列席する。彼のために装った、一番美しい姿を見せなければ。だから蓮、もう泣かないでくれ」

 子供をあやすような口調で言って、頼む、とまた蓮の前で床に額をつける。
 こうやって表面を繕っていれば、感情に支配されずにすむ。蓮に接するとき、感情は必要ない。

 月龍は今、蓮にとって無害なだけの男になりたかった。
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登場人物紹介

月龍《ユエルン》

古代中国、夏王朝の武官。

武に関しては並ぶ者なきと評される腕前。

無愛想で人の機微に疎い。

有力な宦官の孫として養子に入る。出生に秘密あり。

蓮《レン》

王の姪。王子の従妹。

穏やかだけれど型破りなところのある、小柄な少女。

月龍との出会いで、人生が一変する。


亮《リーアン》

夏王朝の第一王位継承者。

蓮のいとこ、月龍の親友。

亮を出産時に母が死亡し、妃を溺愛していた父王からは仇のように嫌われている。

絶世を冠するほどの美青年。頭脳明晰。

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