第151話 狂乱

文字数 1,418文字

 頭上高く掲げたのは、利き手で強く握りしめられた拳。

 ――駄目だ。

 深奥部からの制止は、間に合わなかった。気づいたときにはもう、拳は蓮の右頬を打ちつけていた。
 月龍の腕力の前に、蓮は子鼠にも等しい。一撃だけで軽々と吹き飛び、床に倒れる。
 前屈みに倒れたのに腹を打たなかったのは、母なる者の本能として、子供を守るためだったのだろうか。

 ほんのわずか、蓮は意識を失ったようだった。しかし襟首を掴み上げると、衝撃のためか即座に覚醒する。
 持ち上げ、宙に浮いた足で抵抗を試みる蓮に、二撃目を当てた。
 蓮の背中は壁にぶつかり、倒れたときにはまた、激しく打ちつけた音がする。

 血臭がした。見れば、蓮の唇の端から血が流れている。口の中でも切ったのだろうか。
 痛いだろう。可哀想に。
 他人事で呟く自分の声が聞こえる。

 膝をつき、倒れこんで噎せ返る蓮の顎に、指を当てた。無理に上を向かせて、唇を重ねる。
 舌を割り込ませ、口中をまさぐってより血の味が濃い所を探り当てた。
 頬の内側にできた傷を、舌で舐め、刺激する。

 痛みのためか、蓮の身が竦んだ。けれど抵抗はせず、逆に自ら舌を絡ませ、月龍の口づけに応えようとさえしている。
 月龍のために、ではない。望んでいるだろうことを叶え、満足させて、これ以上の暴力を避けようとしているのだ。

 ――蒼龍の子供のために。

 蓮の胸に伸ばしかけていた手を握りしめると、躊躇なく、その腹に叩きこんだ。
 急所である水月ではない。下腹部――新たな命を育んでいる部分だった。
 蓮の目が一瞬遠くなり、瞼が下りるよりも早く頭を振る。痛みのために意識を手放そうとし、それを防ぐために活を入れた、といったところだろうか。
 失神した方が楽だろう。なのにあえて意識を留めようとしたのは、身を守るためだ。

 気を失えば、抵抗できない。そうなればそのまま、醒めることのない眠りに落ちる、そう思ったのか。
 自分が死んだら、腹の子も死ぬ、だから死ぬわけにはいかない――声にならぬ蓮の声が、聞こえた気がした。

 歯と歯を噛み合わせて拳を握りしめる月龍に、蓮の濡れた瞳が嘆願する。

「お願いです、私を殺したいのなら殺してもいい。だけど待ってください。この子が生まれるまで――あなたが殺したいのは、私でしょう? この子だけは助けて。そうしたらあなたの望み通り、死んでも構いません」

 ずりずりと床を這うように後退している。腰が砕けたのか、床から起き上がれない様子だった。
 先程の一撃が、外的な圧力だけでなく、内側からの激痛をもたらしたのか。

 ――逆だ。
 蓮の訴えに、苛立ちが増す。

 もし蓮が、子供は死んでも構わない、自分を助けてくれと縋っていたら、少しは気分も晴れたかもしれない。
 けれど蓮は、自分の命より、子供の方が大事だと言った。
 それはとりもなおさず、月龍よりも蒼龍を選んだに等しい。

「子供など、おれの知ったことではない」

 蒼龍の子供など、月龍にはなんの関係もない。思う端から、殺意と狂気が理性を蝕んでいく。
 蓮にも伝わっているだろう。本気で、蓮とその子供を殺そうとしていることは。

「お願い。この子、だけは」

 ずるり、と後方へ這う恟恟たる様に、目を細める。この状況にありながらもやはり、蓮の手は腹に伸ばされていた。

 それほどまでに子供が大切か。その子供の父親である蒼龍が愛しいのか。

 狂乱の最中、それでもなんとかかすかに残っていた思考能力も、これを最後に失った。
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登場人物紹介

月龍《ユエルン》

古代中国、夏王朝の武官。

武に関しては並ぶ者なきと評される腕前。

無愛想で人の機微に疎い。

有力な宦官の孫として養子に入る。出生に秘密あり。

蓮《レン》

王の姪。王子の従妹。

穏やかだけれど型破りなところのある、小柄な少女。

月龍との出会いで、人生が一変する。


亮《リーアン》

夏王朝の第一王位継承者。

蓮のいとこ、月龍の親友。

亮を出産時に母が死亡し、妃を溺愛していた父王からは仇のように嫌われている。

絶世を冠するほどの美青年。頭脳明晰。

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