第158話 殺して

文字数 1,194文字

 沈黙は、長くは続かなかった。

「――残念でしたわね。私を、殺し損ねて」

 深いため息に乗った、消え入りそうな程にか細い蓮の声が告げる。

「え――」

 過激な発言に、咄嗟に反応できなかった。間の抜けた声がただ、洩れる。
 昨夜の蛮行を見れば、たしかに今の状況は「殺し損ねた」と思えるだろう。理解できるだけに、鋭利な刃物よりもその人ことが月龍の胸をえぐる。

「――どうぞ」

 絶句する月龍への追い打ちは、さらに冷たさと鋭さを増す。
 虚ろな瞳を天井へと向けたまま、蓮は続けた。

「今なら傷の一つや二つ、増えても気づかれません」

 目的を遂げてください。

 か弱い声が、途切れ途切れになりながらも意思を伝えた。

 蓮を殺せと言っているのか。

 思い至るのと同時、ぐっと息を飲む。
 蓮は本当に、月龍が彼女の死を望んでいるとでも思っているのだろうか。
 月龍の本心を知りながら、いたぶっているのではないか。

 たとえ後者だとしても、責める権利などあるはずもない。わかっていてもなお、感情が乱れる。
 俯き、顔を背けた月龍の肩は震え、両の拳は暴れ出そうと蠢き始めていた。
 この凶暴な衝動に負けてはいけない。狂乱を抑えるため、爪が食いこむほどに握りしめた拳を太腿に押しつける。

「――できない」
「できない?」

 絞り出した月龍に、蓮が訊き返す。

「昨日はできたのに――薬の助けが必要なの? なら飲んで――」

 人払いをした理由はこれか。否応なしに思い知らされる。

「君に――死んでほしくない」

 昨夜の言動から一転した発言は、しかし月龍の本心だった。

「生きて、幸せになって欲しい。だから――今はただ、体を治すことを考えてくれ」

 たった一日前、殺しかけた男が言っていい台詞ではない。
 なんと身勝手なとでも思ったのか、蓮の隻眼に驚きが宿った。すぐに悲痛な色が広がる。見る見るうちに、涙が溢れ出した。

「――どう、して――」

 そんなこと言うの。問いは声にならず、唇の動きと洩れ出た息だけでようやく理解できた。
 涙は、悲しみと怒り、どちらの発露なのだろう。

「お願い――殺して……」

 再度、嘆願するように呟いて――月龍が否を唱えるより先に、蓮の瞼が閉じる。力が抜け、こちらを向いていた顔がかくんと角度を変えた。
 意識を失ったのか、あるいは――

「あぁ……(ハン)殿! 蓮が――!」

 月龍の目には、死んだようにも見えた。恐怖に駆られて、上ずった叫びを上げる。
 医師――范喬(ハンキョウ)は、叫び声で異変を察したらしかった。扉の前に待機していたのだろう、慌てて駆け込んでくる。

「大丈夫です。気を失っておられるだけで……ですが今日はもう、このままお休みになられた方がいいでしょう」

 范喬の言葉に、ひとまずは安心する。だが気絶したまま眠りに落ちる容体が、芳しいものではないことくらいはわかる。

 これが、月龍の所業。

「邵殿――」
「范殿」

 范喬を遮って、呼びかける。

「あなたに、頼みがある」
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

月龍《ユエルン》

古代中国、夏王朝の武官。

武に関しては並ぶ者なきと評される腕前。

無愛想で人の機微に疎い。

有力な宦官の孫として養子に入る。出生に秘密あり。

蓮《レン》

王の姪。王子の従妹。

穏やかだけれど型破りなところのある、小柄な少女。

月龍との出会いで、人生が一変する。


亮《リーアン》

夏王朝の第一王位継承者。

蓮のいとこ、月龍の親友。

亮を出産時に母が死亡し、妃を溺愛していた父王からは仇のように嫌われている。

絶世を冠するほどの美青年。頭脳明晰。

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み