第202話 殺してあげる
文字数 1,792文字
蓮は月龍からの贈り物を、喜んでくれなかった。受け入れることすら拒絶した。
挙句には、愛妾を入れろとまで言う。
迂闊なことだ。ほんの先刻、蓮は月龍に情の一欠片も抱いていないことを暗に示していたのに、口先ばかりで抱いてくれと言われて舞い上がってしまった自分の、なんと愚かしいことか。
噛み合わせる歯に、さらに力が入る。歯が砕けるほどの圧力が顎にかかっていることを、自覚した。
――否。砕けたのは月龍の心だろうか。
唇の片端を吊り上げる。
「だったら――叶えてやる」
片頬に笑みを刻みながら、蓮の頬に手を伸ばす。
そっと撫で下ろした。蓮の瞼が、閉じられる。
長い睫毛、白皙の肌、さくらんぼうを含んだような鮮やかな色彩の唇――すべての造形が美しく、見惚れる。
この、かすかにほころんだ唇が残酷な台詞を吐き出した。
顎に触れ、白い首にも手を当てる。細い首だ。月龍の手の大きさならば、一周するかもしれない。首の骨を折ることも、おそらく容易だ。
そして――月龍は手に力をこめて、蓮の首を掴まえた。
「――――!?」
「なにも身を汚す屈辱に耐える必要はない。君の望み通り、おれのこの手で殺してあげる」
人差し指と親指で、首の両側にある頸動脈をそれぞれ押さえる。これでもう、声を上げることもできない。
無論、呼吸もできないはずだ。苦しさのあまりか、蓮は自分の喉にかけられた月龍の左手を掴む。
引きはがそうとしているらしいが、蓮の力で敵うはずがない。愕然と瞠った目で月龍を見つめてくるのが、おかしかった。
これは蓮が望んだことだ。蓮が、月龍にこうさせている。なのに何故、抵抗を試みるのだろう。
本当は嬉しいくせに。本当は死んで、楽になりたいくせに。
腕力だけで、蓮を臥牀へと押し倒す。馬乗りになって、今度はその喉に両手をかけた。
胸が痛くて、溢れ出した涙で視界がぼやけてよく見えない。ただ、蓮が両手両足を動かし、逃げようとしていることだけはわかる。
思っていたよりも苦しかったのだろうか。それとも抵抗することで、より月龍に罪悪感を植えつけようとしているのかもしれない。
「――大丈夫だよ、蓮」
そっと、蓮の耳に囁きを吹きこむ。
「苦しいのはもう、すぐに終わる」
もうすぐ、楽にしてあげる。嫌なことをすべて忘れさせてあげる。君を、君の子供の元へと送ってあげる。
そして――すまない。
蓮は月龍を苦しめたくて命を捨てるのだ。けれど蓮を殺したら、次は自分を殺すつもりだった。
蓮を自らの手にかけたあと、生きていけるとは思えない。蓮の存在しない世の中に、未練などなかった。命を絶つことだけが、月龍を楽にしてくれる。
月龍の手の中で、蓮の呼吸が浅くなり、弱くなっていく。空気を求めて喘ぐ姿に、涙が滂沱と流れ落ちた。
「月――……」
名を呼び、罵倒しようとしたのだろうか。蓮の口が大きく開いて、ほんのわずかだけ声が洩れる。
それを最後に、身体から力が抜けた。
窒息による気絶。あと一押しで――あと少し力をこめて絞め続ければ、蓮は死ぬ。
呼吸だけではなく、全身を巡る血液から空気が失われ、やがては心臓も停止し、永遠に目を開けることはなくなる。
もう二度と、あの琥珀色の瞳は見られない。焦がれた微笑みが刻まれることはなく、惹かれ、心地よく寄り添った体温は段々と低下し、冷たくなっていく。
「――はっ」
短い嘆息を吐き捨て、蓮の首から両手を離した。
できるわけがない。蓮を殺すくらいならば、月龍一人が自害すればすむ話だ。
けれど、あと少しだけでも傍に居たい。浅ましい願望を捨てることができない。
「すまない」
蓮の顔の横、両側にそれぞれ手をついて呟く。
ぽたりと、月龍の涙が蓮の頬を濡らした。
今すぐ殺して楽にしてやることも、この場で自決して解放してやることもできない。蓮の望みをなにひとつ叶えてやれないのだから、謝罪以外にできることはなかった。
蓮の上から下りる。苦しさのせいで滲んだ脂汗をそっと拭い、布団をかけてやった。
今、蓮はただ眠っているのではなく、気を失っている。簡単には目を覚まさないだろう。
傍に居られる好機だ。いつものように自室に戻ることはせず、このままずっと、蓮の寝顔を見ていたい。
――このようなことをすればきっと、嫌がられるのだろうな。
蓮の頬に手を伸ばし、逆の頬にそっと、触れるか触れないかの口づけを落とした。