第206話 寒梅
文字数 1,345文字
以降、月龍は本当にただの従者として振る舞い始めた。
最初はぎこちなく、けれど三、四日経つ頃には慣れた様子で「公主」と呼ぶ。
月龍の声でそう呼ばれる度に、蓮という人間を否定された気分になった。お前はただの公主にすぎないのだから近寄るな。言外の声が聞こえる。
このような思いをさせるくらいならば、何故あのとき死なせてくれなかったのだろう。窓際の
こうやって、無気力なまま呆然と一日を過ごすことが多くなっていた。もう家の中のことをする必要もない。
だって、と、蓮は家に入ってきた他人を横目で見た。
他人――月龍が雇った、下女である。
彼女に家事全般を任せることにした、あなたはもうなにもなさる必要はない。月龍はそう言うが、彼女の仕事が家事だけでなく、蓮の監視も含まれているのは明白だった。
下女の名は、
年は蓮の一つ上だと聞く。あの父親同様に、髪と瞳の色がやや薄い。頬の辺りに少しそばかすが見える、朴訥とした印象のあどけない少女だ。
ずっと使用していなかった離れを整え、住み込みで働かせている。
月龍はやはり、あの家に執着を持っているのだろうか。考えて、すぐに否定する。
破格の好条件で一度は結びかけた養子縁組を、こちらの都合で一方的に断る羽目になったことに負い目を感じているだけだ。
良心の呵責――あの男が?
まさか。苦笑が洩れる。そのような理由よりは、あの家、家族に興味を持っていると考える方が自然な気がした。
――もしくは、この娘に。
あり得る話だ。髪色などの色素が薄い人間は、皆無ではないけれど圧倒的に少ない。蓮や嬋玉ほど似ていないにせよ、亮を重ね見る気なのかもしれなかった。
散々反対していたくせに、こうやって愛妾を迎えるための準備をしているのだと思うと吐き気がする。
否、準備ではなく、すでにそういう関係になっているのかもしれない。
なにせ寒梅は、月龍や蓮と一緒に卓を囲んで夕食を摂る。下女としてはあり得ないことだ。
無論、最初は固辞していた。けれど月龍が強めに勧めると、遠慮がちながらも同席するようになった。
雇い主に言われれば断れないだろう。蓮も初めはそう思っていたが、違う可能性に気がついた。
二人の仲がすでに親密なものだったとしたら? たとえ今は違ったとしても、いずれそうなることを月龍が望んでいるのだとしたら。
仮定の話ではない。むしろそうでなければ、下女を食卓に同席させるわけがないのだから。
寒梅が住みこみを始めて、もう半月近いだろうか。とうとう月龍が、下がった寒梅を追って離れに入って行くのを見てしまった。
それが、昨夜のことだ。
今までも通っていたのだろうか。可能性はある。蓮はいつも早々に寝所に引き篭もるから、気づいていなかっただけかもしれない。
裏切者、と叫ぶことはできなかった。蓮自身が薦めたことだ。それでも目の当たりにすると、さすがに胸が痛い。
もっとも、紫玉のように蓮を蔑ろにする相手ではないことが、救いにも思える。むしろ蓮を恐れ、敬っている様子が見えた。
この子とならうまくやっていけるかもしれない。――やっていくしか、ない。
話をしてみよう。痛む胸を押さえて、蓮は覚悟した。