第170話 別れの条件
文字数 1,267文字
「別れてください、私と」
自分でも意外なほど、はっきりと舌に乗せることができた。
これできっと、喜んでくれる。表立って喝采を叫ぶことはしないだろうけど、作り笑顔ではなく、少しは本当の笑みを見せてくれるはずだ。
――そう思っていたのに、何故、今にも泣き出しそうな顔をするのだろう。
「ああ、すまない」
怪訝な眼差しでもしていたのだろうか。蓮と目が合った瞬間、いつもと同じ苦笑で謝罪する。
「おれも、そう言おうと思っていた。思っていたが――君に言われると、やはり辛い」
ああ、これも蓮を思う演技か。周到なものだと、ある意味で感心する。
「では、ご了承いただけるのですか」
「ああ、別れてあげる」
まるで蓮を気遣うように言うが、月龍自身の望みではないのか。あくまでも「望まれた」という姿勢を貫くつもりなのか。
どこまで、この男は卑劣になるのだろう。
「だが、一つだけ頼みがある。条件と言い換えてもいい」
「条件ですか」
金銭でも要求するつもりだろうか。それとも亮たちをうまく言いくるめてくれと頼むつもりかもしれない。
いずれにせよ、ろくなことではあるまい。
口にするつもりもない責言が、次々と浮いてくる。自分の中からこれほど醜い言葉が出てくるのかと、蓮は自分自身にも嫌悪を覚えた。
月龍が、目を笑みの形に細める。
「おれと、結婚してほしい」
穏やかに笑いながら告げられた言葉の意味が、理解できなかった。
別れの条件が結婚などとは、矛盾も甚だしい。
蓮の、疑念に満ちた眼差しに気づいたのか。月龍は慌てた仕草で、胸の前で両手を振った。
「いや、決して実を伴うものではない。形だけでいい。君が妻の役目をする必要もなければ、同衾するつもりもない」
結局、なにが言いたいのかわからない。なにをさせたいのかも。
ただ睨みつけるように見上げる蓮に居心地でも悪くなったのか、月龍らしくもなく饒舌に語り始める。
「無論、必要以上君に触れることはしない。顔を見ずに済むよう、できるだけ帰りも遅くする。おれを夫だなどと思わなくていい。従者か護衛くらいに思ってくれて構わない。実質、ただの――他人だ」
他人だとつけるとき、言いよどんだように聞こえたのは気のせいか。それとも、せめて言い辛そうにしてほしいと望んだせいで、そう聞こえただけかもしれない。
「君に二度と触れられなくとも、憎まれたままでもいい。君の夫という名がほしい。名だけで、満足する。だから実際には君は自由だ。周りに知られさえしなければ、他の男と会っても構わない」
形だけ、夫の名――ただの他人。月龍が語る単語の一つひとつが忌まわしく感じられる。
これが本当の狙いか。
なんだかんだと理由をつけてはいるが、要するに蓮の身分はほしいけれど、蓮自身は邪魔だと言っているのだ。
他の男に会ってもいい、自由にしろと言う。裏を返せば、月龍にもその権利をよこせと言っているのだろう。月龍が他の女の元に通っても、文句を言うなと。
名義上の婚姻は結ぶが、実質は別れる――他人になる。これが月龍の言う、「別れるための条件が結婚」なのだろう。