第85話 絶望
文字数 1,692文字
「私と、別れてください」
単純な言葉のはずなのに、なぜか即座には意味が理解できない。
え、と間の抜けた声が洩れる。浮きかけていた笑みが、瞬時に凍り付いた。硬直した頬が、ひくりと口元を引きつらせる。
問い返しに、蓮は表情を変えない。多少のためらいが瞳に見えるが、沈重な面持ちで月龍をまっすぐに見上げている。
現実逃避だとは、すぐに気づかされた。泣き笑いの顔になる。見つめようと思うのに、焦点をとらえきれず、瞳が左右に揺れた。
「それは――突き飛ばしたからか? 痛い思いをさせたから、もう嫌になったか。ならば謝る。二度と乱暴もしない。だから蓮――」
「そうではなくて」
そのようなことは言わないで。懇願することすら許してもらえず、蓮は静かに息を吐く。
「もういいの。お芝居は、必要ありません」
「――芝居?」
「本当は、私に嫌われたいのでしょうけど……ごめんなさい。どうしても、嫌いになれないの」
蓮は一体、なにを言っているのだろう。今度こそ意味がわからず、愕然とする。
月龍が蓮に嫌われたがっているなど、あり得ない。なにより、嫌いになれないのに別れたいとは、どういうことか。
「ご安心なさって。前に、亮さまに秋怨の念を吹きこんでやる、なんて申し上げましたけど、本気ではありませんでしたの。そう言えばあなたが傍に置いてくれると――ただの、脅し文句だったの」
蓮の口の端には、薄く笑みが滲んでいる。ただ、悲し気に歪んだ眉と濡れた瞳が、笑顔と呼べるものではなくしていた。
「でも、触れることすら厭うていらっしゃるのなら――これ以上、嫌われたくない。だから」
その前に、別れたい。
小さくつけ加える声は、何処か遠くに聞こえた。
「――違う」
触れたくないのではない。触れられないのだ。
これ以上嫌われたくない、それは月龍の台詞ではないのか。
そうか、蓮は月龍に責任を負わせようとしているのだ。別れたいのは自分ではなく月龍で、その望みを叶えてやるという体裁をとりたいのだろう。
何故? わからない。もしかしたら亮が関係しているのだろうか。
月龍に捨てられそうな自分――そう演出することで、亮に拾われやすくなる。
蓮が本当に愛しているのは、やはり亮ではないのか。
――当然だ。亮と比べて、誰がお前を選ぶ?
頭の中に聞こえたのは、悪意の囁きだった。
「わかった」
呟くのと同時、手を伸ばす。腕を掴んで、力任せに引き寄せた。
「――月龍――?」
均衡を崩し、胸元に倒れ込んできた蓮を抱き竦める。
不安そうな声だった。だがそれも、すぐに苦鳴に変わる。加減なく締めつける力に耐えきれず、蓮の細い骨が異様な音を立てて軋んでいた。
「抱かないから別れるというなら、抱いてやる」
言い訳を消してやろう。そうすればまた変わらず、傍に居てくれるはずだ。
無造作に髪を一房掴む。下へ引き、反動で顔を上げた蓮の唇を口でふさいだ。
力ずくで奪えば、体だけは手に入る。どうせ心は得られないのならばもう、体だけで充分だ。
体と身分が目当てだと思うなら、勝手に思っていればいい。
蓮の胸に手を伸ばす。頼りない柔らかさが、乱暴に触れれば壊れてしまうのではないかと錯覚させた。
だからこそずっと、優しく触れてきたのだ。けれどそれではいけないのだろう。そっと撫でるも一瞬、強く握りしめる。
「――!」
痛かったのだろうか。蓮が悲鳴を上げようとするも、口をふさがれた状態ではくぐもった呻きに過ぎなかった。
月龍の胸を押し、幾度も拳を振り上げては肩や顔までも打ちつけてくる。ささやかな抵抗が、むしろ可愛かった。押さえつけることもせず、好きに打たせてやる。
力を入れるまでもない。ただ体重を預けるだけで、蓮を簡単に床へと押し倒すことができた。
身をのけ反らせ、なんとか逃れようともがく蓮の姿が、不思議だった。こうしなければ別れると言ったのは彼女のはずなのに、何故これほどまでに嫌がるのだろう。
なにを、被害者面で泣いているのか。
蓮の太腿に手をかけ、強引に押し開くとそこに自分の体を埋め込んだ。
迸った絶叫に、眉も歪めない。ただ狂気に任せて、腰を振るうだけだった。