第90話 菓子

文字数 1,395文字


 干した棗を入れた、甘い焼き菓子。亮は好んで食べていたが、月龍は見るだけでも胸焼けしそうだと嫌っていた。
 そもそも、甘味は貴重である。高位とはいえ、宦官の養子如きがおいそれと口にできるものではない。食べ慣れない珍味はどうしても、舌になじまなかった。
 単純に味覚の問題かもしれない。けれど旨そうに口に運ぶ亮を見るにつけ、育ちの違いを見せつけられている気分だった。
 無論、それを作る蓮も同様で――

 理性は、苛立ちを抑えられなかった。卓に歩み寄り、菓子の乗った皿を手で払いのける。
 陶器の割れる音が、既視感を呼び起こした。蓮に別れ話を切り出された、あの日のことを。

「――月龍――?」

 驚きと恐怖に瞠られた蓮の目も、あの日と同じ。

「おれは亮と違って、甘いものは嫌いだ。目にするのも嫌なくらいにな」
「――え?」
「初めは仕方なかった。公主に差し出されたものを断れるか?」

 まだ付き合い始める前、亮へと持ってきていた菓子を月龍にも勧められた。
 躊躇いながらも手を伸ばしたのは、「公主の勧め」だったからではなく、蓮との接点を持ちたいがためだった。
 案の定、口に入れたとたん広がった甘さに吐き気すらする。思わず口を押えた月龍に、「お口に合いませんか?」と邪気なく蓮が訊いた。
 そもそも嫌いだと言えるはずがない。「もうひとつ頂いてもよろしいか」と再度手を出し、横で見ていた亮に呆れた顔をされたものだ。

 ――思い出すのは、楽しかった時間。けれど今はどうだ。

「ごめんなさい」

 蓮は月龍を見上げ、悲しそうに眉をひずませる。

「私、気づかなくて。いつも召し上がって下さるから、お好きなものだとばかり――」

 対応が違うのではないか。公主に取り入るためだったのかと、月龍を非難するべきだろう。せめて、非道だと泣いてくれればいいのに。
 卑怯だと思う。蓮がこのような対応しかしないのならば、月龍は撤回することも自己弁護することもできない。誤解は蓮の中で真実となる。
 曲解させる物言いをしたのは月龍だ。わかっていても、逆恨みの感情に支配される。

「――もういい」

 割れた食器を片づけるため、床に膝をつく蓮に向けて、嘆息と共に言う。

「あとはおれが片づける。――もう帰ってくれ」

 陶器の破片で手を切ってはいけないから。
 髪飾りを――月龍を否定されて、苛立ったままでは優しく接することができないから。
 ――これ以上、心にもない言葉をぶつけて、蓮に嫌われたくないから。
 そう口にしたら、少しは信じてくれるだろうか。

「わかりました」

 ため息交じりに言って、蓮は俯く。

「――あの」

 落ちた沈黙は、さほど長いものではなかった。躊躇いがちな呼びかけが、蓮の口から洩れる。

「それは……今日だけ、ということでしょうか」
「――どういう意味だ」
「私がお役には立てないから……もうここへは来るなと」
「それは別れ話か」

 蓮を遮る声が、自分の耳にも低い。ぞっとする響きに、蓮の顔色が目に見えて青くなる。

「もう随分と触れられることもなく――お戻りが遅いのも、私に会いたくないからではないのですか?」

 怯えた様子ながらも、蓮は続ける。
 ――「別れ話」を否定してはくれなかった。

 会いたくないのでも、触れたくないのでもない。大切に思うが故にできないのだと、何度口にしたことか。
 それでも蓮は、決して信じてはくれない。

「――約束を違えたな」

 そっと、蓮の頬に手を伸した。
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登場人物紹介

月龍《ユエルン》

古代中国、夏王朝の武官。

武に関しては並ぶ者なきと評される腕前。

無愛想で人の機微に疎い。

有力な宦官の孫として養子に入る。出生に秘密あり。

蓮《レン》

王の姪。王子の従妹。

穏やかだけれど型破りなところのある、小柄な少女。

月龍との出会いで、人生が一変する。


亮《リーアン》

夏王朝の第一王位継承者。

蓮のいとこ、月龍の親友。

亮を出産時に母が死亡し、妃を溺愛していた父王からは仇のように嫌われている。

絶世を冠するほどの美青年。頭脳明晰。

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