第154話 勃発
文字数 1,813文字
暴行から丸一日が経ってなお、蓮の意識は戻らなかった。
小さく呻いたり、譫言をくり返しているだけで、目を覚ます気配もない。
処置に追われ、忙しく立ち回る医師とは対照的に、月龍はなにもすることができなかった。ただ立ち尽くし、眠る蓮を見守る。
自らの無力さに、嫌気がさしていた。同時に、これだけ心配して待っているというのに、意識の戻らぬ蓮に理不尽な怒りすら湧く。
それがどれだけおかしなことかは、理解できた。薬が切れかかっているせいなのか、身勝手なだけなのかはわからずとも、己の暴力性を恐れれば蓮の傍にはいない方がいいのだとわかる。
苛立ちと不安と、絶望と焦りと、様々な感情が都度入れ替わっては月龍を責め苛んだ。
蓮がいつも待ってくれていた居間へと向かう。榻に座るのではなく、力なく床に崩れ落ちた。
卓に肘をついた両手で、頭を支える。
昨夜から一睡もしていなかった。度重なる衝撃で神経は極限にまで傷つき、疲れた体は休息を要求してくる。
けれど、蓮が生死の境を彷徨っているというのに、眠れるはずもなかった。
がたん。突然起きた背後の激しい物音に、咄嗟に立ち上がる。同時に振り向いた目が捉えたのは、信じがたい人物だった。
腕を組んだまま入口に佇む、絶世を冠するほどの美青年。
すらりとした痩躯には、いつにない力強さが漲っていた。
その源となるのは――怒り。
「よぅ、月龍」
透き通るような美声にも、凄味がこめられている。
「亮――どうしてここに」
「知らせを聞いてな。居ても立ってもいられなかった」
「そうではなくて――」
「ああ、よく来られたな、という意味か」
憎しみをこめた目が月龍を射抜き、口から洩れ出すのは声の形を借りた毒だった。
「皮肉というか幸いというか、宮中は混乱している。実権を持たず、戦力にもならぬ第一殿下など、気にかける者はいない。抜け出すなど、容易だった」
「混乱――戦力?」
意味がわからずおうむ返しに問えば、亮が、はっと鼻先で笑う。
「なんだ、知らんのか。武官の風上にも置けん奴だ。もう一般の民ですら知っているぞ。国家存亡の危機だというのに、呑気なものだ」
国家存亡の危機。発せられた単語から導き出せる答えは、一つだった。
「それではまさか、天乙が反乱を?」
「まさか、はおれの台詞だぞ、月龍」
嘲笑に唇を歪めて、亮の足が一歩、前に出る。
「聞いたぞ。蓮が暴漢に襲われたそうではないか。それもここで――門扉を護衛に守られた、この邸宅で」
「それは」
「しかもその暴漢とやらは、お前と鉢合わせながらも逃げ遂せたと言うではないか」
亮が口にしたのは、医師に対して月龍が言った苦し紛れの弁明だった。
帰宅して瀕死の蓮を見つけた、そう言った方が単純だっただろう。けれどそれでは、報告までの時間に齟齬が生じる。
辻褄を合わせようと、混乱の中で舌に乗せた戯言。冷静に考えるまでもなく、穴だらけだった。
亮がそれを知っているのも、不思議はない。そもそもあの医師は、夜も眠れぬ月龍に亮が紹介してくれた人物だ。今でもつながっていただけのことだろう。
「まさか、だよな。朝廷随一の技量を誇るお前が、たかが暴漢一人に後れを取るなど」
ざりっと床を踏みしめ、亮がまた前進する。
「その上医師の診察によれば、暴行の痕は新しいものだけではなかったそうだ。中には治りかけたものを含む、古い痣も無数にあったと聞く。明らかに、継続的な暴力を受けていたはずだと」
ざり、ざり、と近づいてくる亮の沓音が、やけに響く。
「――まさか、だよな」
眦を吊り上げた亮の瞳は、美しい輝きを放っていた。
怒りに震え、鬼気迫る凄絶な表情をしていてさえ、亮は美しい。それだけに、恐ろしかった。
恐ろしくとも、目をそらすこともできない。
「まさか、お前が蓮に手を上げていたわけではあるまいな」
いつもの涼やかさを失い、燃える光を宿した瞳が、月龍を捕らえて離さなかった。
否、視線だけではない。亮よりも頭半分は上背のある月龍の胸倉を掴み上げる。
ぐいと引き寄せられ、月龍と亮は額が接するばかりの距離となった。
「どうだ。え? お前が蓮の子を殺したのか。蓮を命の危機にさらしたのはお前なのか。答えろ、月龍!」
「――そうだ」
口角泡を飛ばす絶叫に、目と顔を背けながら首肯する。
ぶちんと、亮の神経が切れる音が、月龍の耳にまで届いた気がした。
「ふざけるな!」
叫ぶよりも早く、亮の拳が月龍の頬に叩きこまれた。