第84話 決意

文字数 1,540文字

 もう二度と見たくないと思っていた蓮の涙を目に、心臓が鷲掴みにされたような痛みを訴えかけてくる。

「なにかあったのか」

 尋常ならざる状況に、さすがの月龍でも気がついた。

「なにが不安だ。おれがまたなにか、誤解させてしまったのか」
「誤解では――ありませんもの」
「え?」

 答えた蓮の声は小さくて、聞き取れなかった。問い返すも、彼女はもう答えない。代わりに、大きく開いた口で月龍を銜えこんだ。

「――!?」

 びくんと身が竦む。鎮まりかけた衝動に、快感が働きかけては意識を揺らがせた。

「だめだ、蓮。必要ないと言った。おれは――」

 体の関係がなくとも、愛している。言葉を最後まで口にすることはできなかった。代わりにただ、低く呻く声が洩れる。
 今すぐにでも引き離すべきだ。理性が頭の中で叫ぶ。泣きながら、体でつなぎとめておこうとしている蓮を抱けるはずがない。ましてこのまま果てては、ただ処理をさせただけに思われるのではないか。
 このような強行に到ったには、意味があるはずだ。ならば理由を知りたい。不安の種を取り除いて、今度こそ気持ちを信じてほしい。

 けれど、だめだと思うほどに背徳感が強い誘惑となる。このまま欲に従えば、楽になれることを知っていた。

 ――そう、知っているのだ。蓮は月龍を疑っている。それでもなお傍に居たいと望むほどに、愛してくれていることを。
 発作的に、蓮の髪を掴む。

「やめてくれ、もう……我慢できなくなる。君を――」

 傷つけたくない。喉の奥で、声が詰まる。
 言葉の合間に呻くのではなく、すでに喘ぐ隙間をぬってようやく言を紡いでいる有様だった。

 楽になりたい。蓮を泣かせたくない。
 二つの感情の狭間で揺れ動く。
 心を嘲笑うように、体は従順に蓮に反応していた。髪に差し込まれた月龍の手も気にならぬ風に、蓮は頭を前後させる。合わせて響く濡れた音と快感に、気が遠くなりそうだった。
 まともに呼吸もできぬほど、息が荒くなる。
 苛立ちと不安、そして焦りと快感。
 相反する感覚に迷い、悩み――そして一瞬、頭の中が真っ白になった。

「やめろ――!」

 蓮の髪を掴み、引きずるようにして後ろへと突き飛ばす。
 突き飛ばされた蓮は、どん、と背中から卓の脚にぶつかった。反動で月龍も(こしかけ)から転げ落ちたが、強すぎる焦燥感のために痛みも感じない。床に座りこんだまま、乱された夜着の前をかき合わせる。

 落ち着け、冷静になれ――きつく、自分に言い聞かせた。腕を腕で抱きしめ、固く目を閉じたまま自分の胸に顎をつけ、体の震えを止めようと努力する。
 まずは身を包んでいた快楽が遠ざかり、次いで煩悩と焦燥が後を追った。
 ほう、と息を吐くも一瞬、血の気が引く。我に返ると同時、蓮を勢いよく振り返った。

「すまない、蓮」

 床の上を這うように近づき、謝罪する声が上ずっていた。
 突き飛ばしただけではない、引き離すときには蓮の髪を掴んでいた。痛みがあって、当然である。
 現に蓮は、背を丸めて蹲ったままだ。自責に、胸も痛む。蓮の両肩を掴み、心配をのせて顔を覗きこんだ。

「頭は打たなかったか? すまない、本当に。このようなつもりではなかった。気が動転していて――」
「月龍――お願いが、あります」

 焦りのため、常にない早口でする月龍の謝罪と言い訳を、蓮が遮る。
 顔に痛みが見えないことでまず、安堵した。次に浮かんだのは、自分勝手な希望だった。
 疑われ、信用を失ったのだから仕方がないのだけれど、蓮が甘えてくれなくなったことが寂しかった。
 その蓮が、あえて頼みがあると断った。置かれた状況も忘れ、期待が込み上がってくる。

「無論だ。おれにできることなら――」
「私と、別れてください」

 なんでも言ってくれ。最後まで続けさせず、蓮が決意の声を上げた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

月龍《ユエルン》

古代中国、夏王朝の武官。

武に関しては並ぶ者なきと評される腕前。

無愛想で人の機微に疎い。

有力な宦官の孫として養子に入る。出生に秘密あり。

蓮《レン》

王の姪。王子の従妹。

穏やかだけれど型破りなところのある、小柄な少女。

月龍との出会いで、人生が一変する。


亮《リーアン》

夏王朝の第一王位継承者。

蓮のいとこ、月龍の親友。

亮を出産時に母が死亡し、妃を溺愛していた父王からは仇のように嫌われている。

絶世を冠するほどの美青年。頭脳明晰。

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み