第89話 思惑
文字数 1,590文字
「今戻った」
声をかけながら、邸に入る。卓の前の榻 に座っていた蓮は立ち上がり、月龍を見上げて目を細めた。
「おかえりなさいませ」
作り笑顔と、硬い顔。恐怖を滲ませる対応に、失望が湧く。
もう、以前のように飛びついてきてはくれない。最初は戸惑ったけれど、親密さの証拠のようで嬉しかったのに。
「――そうだ、蓮」
洩れかけたため息を飲みこんで、気分を変えるためにわざと明るく話しかけた。
「市場で見かけた。君の髪によく映える色だと思う。受け取ってくれ」
深い赤とも紫ともつかぬ色をした石――紅榴石といっただろうか。蓮の好きな石だ。花の意匠もきっと、好みだと思う。
怖がらせないようにと笑みを作り、蓮の手の中に髪飾りを押しつけた。
わずかでも口元をほころばせてくれないかとの月龍の期待を裏切り、蓮はまるで表情を変えない。無感動な目を、手元に落とす。
「ありがとうございます。大切にします」
これが笑顔での台詞であれば、どれだけ嬉しかっただろう。けれど暗い顔と声のまま告げられた、型通りの挨拶にすぎなかった。
心のない感謝の言葉などいらない。ほしかったのは、嬉しそうに笑う顔だ。
「――月龍」
胸が痛くて、目頭が熱い。渋面を見られたくなくて背けた月龍の横顔に、遠慮気味の小さな声がかけられる。
「もう、このような贈り物はして頂かなくても大丈夫です」
「――え?」
「せっかく頂いても、つけて行く場所も機会もありませんから」
蓮は本来であれば、綺麗に着飾って出かける場面には事欠かない立場だった。
それを禁じたのは、月龍だ。嬋玉への挨拶すら、あの別れを切り出された日以降は許していない。
かっとなったのは、後ろ暗いせいだった。
「皮肉のつもりか」
口の端が歪んだことに気づいたのだろう。蓮の顔色がさっと変わる。
「おれのため、では、美しく装うこともできないか」
「いえ、そのようなことは――」
「そういえば喜びもしなかったな。――ああそうか、君は公主だったな。このような安物をもらっても、処置に困るか?」
何故思い至らなかったのだろう。月龍が買える程度の品物は、蓮にとっては子供の玩具に等しい。
否、子供の頃でさえもっと高価なものを身につけていただろう。
喜んでもらおうなどとは、おこがましい。拙さと浅ましさを突きつけられた気分だった。
「ならばそう言えば、まだ可愛げもあるものを」
「違います! ごめんなさい、お仕事で疲れていらっしゃるのに、私のためにと市場へ寄って頂くのは申し訳なくて――」
「言い訳はいらない」
慌てて言葉を並べ始めた蓮を遮る。
怖がらせないように優しく接するつもりだったのに、仮面は剥がれてしまった。
「気に入らないのならば、返せばいい。無理に押しつける趣味もない。どうせならば素直に喜んでくれる、もっと贈り甲斐のある可愛い女にやった方がまだいい」
なにを言っているのか。
後悔しても、すでに遅い。心にもない憎まれ口は、すでに飛び出していた。
嘆息か謝罪か。どちらを口にすべきかは、わかりきっていた。
「――申し訳ありません」
他人行儀な謝罪は、月龍ではなく蓮の口から洩れたものだった。
え、と声を上げる間もない。蓮は手の中にあった髪飾りに目を落とすと、月龍の手に握らせた。
返す、との意思表示に、愕然とする。
他の女にやると言ったのだ。何故嫉妬も見せず、容認するような行動をとるのだろう。
否、容認どころではない。むしろ他の女に通うようになって別れてくれればとでも考えているのではないか。
噛みしめた奥歯が、ギリ、と鳴く。
その音から苛立ちを察したのか、蓮がはっと顔を上げた。
「あの、今日、お菓子を作りましたの。あとで召し上がってくださいね」
怯えた瞳のまま、強張った笑みを刻む。無理に作られたやけに明るい声が、耳障りだった。
卓に目を落とすと、蓮が月龍の好物だと思いこんでいる菓子が置かれていた。
声をかけながら、邸に入る。卓の前の
「おかえりなさいませ」
作り笑顔と、硬い顔。恐怖を滲ませる対応に、失望が湧く。
もう、以前のように飛びついてきてはくれない。最初は戸惑ったけれど、親密さの証拠のようで嬉しかったのに。
「――そうだ、蓮」
洩れかけたため息を飲みこんで、気分を変えるためにわざと明るく話しかけた。
「市場で見かけた。君の髪によく映える色だと思う。受け取ってくれ」
深い赤とも紫ともつかぬ色をした石――紅榴石といっただろうか。蓮の好きな石だ。花の意匠もきっと、好みだと思う。
怖がらせないようにと笑みを作り、蓮の手の中に髪飾りを押しつけた。
わずかでも口元をほころばせてくれないかとの月龍の期待を裏切り、蓮はまるで表情を変えない。無感動な目を、手元に落とす。
「ありがとうございます。大切にします」
これが笑顔での台詞であれば、どれだけ嬉しかっただろう。けれど暗い顔と声のまま告げられた、型通りの挨拶にすぎなかった。
心のない感謝の言葉などいらない。ほしかったのは、嬉しそうに笑う顔だ。
「――月龍」
胸が痛くて、目頭が熱い。渋面を見られたくなくて背けた月龍の横顔に、遠慮気味の小さな声がかけられる。
「もう、このような贈り物はして頂かなくても大丈夫です」
「――え?」
「せっかく頂いても、つけて行く場所も機会もありませんから」
蓮は本来であれば、綺麗に着飾って出かける場面には事欠かない立場だった。
それを禁じたのは、月龍だ。嬋玉への挨拶すら、あの別れを切り出された日以降は許していない。
かっとなったのは、後ろ暗いせいだった。
「皮肉のつもりか」
口の端が歪んだことに気づいたのだろう。蓮の顔色がさっと変わる。
「おれのため、では、美しく装うこともできないか」
「いえ、そのようなことは――」
「そういえば喜びもしなかったな。――ああそうか、君は公主だったな。このような安物をもらっても、処置に困るか?」
何故思い至らなかったのだろう。月龍が買える程度の品物は、蓮にとっては子供の玩具に等しい。
否、子供の頃でさえもっと高価なものを身につけていただろう。
喜んでもらおうなどとは、おこがましい。拙さと浅ましさを突きつけられた気分だった。
「ならばそう言えば、まだ可愛げもあるものを」
「違います! ごめんなさい、お仕事で疲れていらっしゃるのに、私のためにと市場へ寄って頂くのは申し訳なくて――」
「言い訳はいらない」
慌てて言葉を並べ始めた蓮を遮る。
怖がらせないように優しく接するつもりだったのに、仮面は剥がれてしまった。
「気に入らないのならば、返せばいい。無理に押しつける趣味もない。どうせならば素直に喜んでくれる、もっと贈り甲斐のある可愛い女にやった方がまだいい」
なにを言っているのか。
後悔しても、すでに遅い。心にもない憎まれ口は、すでに飛び出していた。
嘆息か謝罪か。どちらを口にすべきかは、わかりきっていた。
「――申し訳ありません」
他人行儀な謝罪は、月龍ではなく蓮の口から洩れたものだった。
え、と声を上げる間もない。蓮は手の中にあった髪飾りに目を落とすと、月龍の手に握らせた。
返す、との意思表示に、愕然とする。
他の女にやると言ったのだ。何故嫉妬も見せず、容認するような行動をとるのだろう。
否、容認どころではない。むしろ他の女に通うようになって別れてくれればとでも考えているのではないか。
噛みしめた奥歯が、ギリ、と鳴く。
その音から苛立ちを察したのか、蓮がはっと顔を上げた。
「あの、今日、お菓子を作りましたの。あとで召し上がってくださいね」
怯えた瞳のまま、強張った笑みを刻む。無理に作られたやけに明るい声が、耳障りだった。
卓に目を落とすと、蓮が月龍の好物だと思いこんでいる菓子が置かれていた。