第192話 狡猾な男
文字数 891文字
月龍の姿が扉の向こうに消えたとたん、全身から力が抜けたような気がした。
彼はいつもああだ。蓮がなにをしても、言っても、薄笑いの仮面を貼りつけたまま奇妙なまでに優しく接する。
砂糖菓子を作ろうと思ったのは、嫌そうに歪む顔を見たかったからに他ならない。
結果は予想以上だった。まさか涙まで見せるとは。
それほど嫌いなのかと罪悪感が湧く。同時に、ならば何故このような物は食べられないと突っぱねなかったのかとも思う。
どうして月龍は、蓮に逆らわないのだろう。「公主に虐げられる夫」を演じることで、なにか利があるのだろうか。
自問への答えはすぐに浮かぶ。身分の低い夫を軽んじる妻、だからこそ夫は他の女に走らざるを得なかったと周囲に見せるためだ。
婚礼の翌日から、月龍の帰りは遅かった。体からは酒の匂いもしていた。話していた通り、早速他所の女の元へ通っているのだろう。
連日その女の元へ通っていたらしいが、それでも蓮は帰りを待っていた。それが鬱陶しくなったのか、一度帰宅し、眠っているようにと言いつけてからまた外出するようになった。
蓮を慮ってのことではない。妻を蔑ろにすることで悪評を被るかもしれない。それを忌避したいがためだ。
狡猾な男。
なのに想いを絶ち切れない蓮は、限りなく愚かだ。
何処にも行かないで、傍に居て。願いを込めて、いつも見つめる。
気配に敏い月龍が気づかないはずもないのに、わかった上で無視をして出て行ってしまう。
そして一人残されて涙するのだ。
独りになると、いらぬことを考える。この邸宅は、これほど広かっただろうか。瀕死の重傷を負った日以降、片時も離れず月龍が傍に居てくれた。それに慣れてしまったせいで、より空虚感を覚えるのかもしれない。
きり、と胃が痛む。いつもは眠ったふりをしながら帰宅を待つのだが、今日は臥牀に入る気にもなれなかった。
臥牀の中に一人で横になっていると、どうしても想像してしまう。今頃月龍は、このような臥牀で、蓮の知らない女性と睦み合っているのだろうか、と――。
かた、と物音がして、はっと我に返る。目を上げると、驚いた表情の月龍が立っていた。