第213話 甘いはずなのに
文字数 2,376文字
その日、月龍は何処とはなしに機嫌が悪いように見えた。
いつものように蓮と月龍の食卓に同席した寒梅に向ける視線が、鋭い。
「あの……私はお暇させて頂いた方がよろしいのでしょうか」
断っても強く促されて結局は同席することになるので、ここしばらくは最初から共に食事を並べていた。
今まではそれを見て満足げにしていた月龍だったが、気が変わったのだろうか。やはり、下女のくせに図々しいと考えるようになったのかもしれない。
「大丈夫です」
叩頭する寒梅に答えたのは、月龍ではなく蓮だった。
「一緒に食べましょう。今までだってそうだったのですから。――でしょう?」
最後、同意を求めた蓮の声は、寒梅に語りかけていた時と比べて随分と硬いものだった。
「――もちろんだ」
平伏したままだから月龍の表情はわからない。ただ、一瞬言いよどんだあとの返事には、苦々しいものが混じって聞こえる。
「ですって。ほら、そんな風に床に手をついていては食事ができないでしょう? 座って」
月龍が拒否しないのは想定済みだったのだろう。蓮は、寒梅を助け起こすために手を伸ばしてくる。
その手を借りて座り直した寒梅に、月龍のなにやら物言いたげな眼差しが突き刺さる。
だが彼は、それ以上なにも言わなかった。蓮も、寒梅と一緒のときには色々と話をしてくれたけれど、もう声を発することもない。
普段は一日の出来事を、まるで報告するかの如く話している月龍が口を噤めば、重苦しい沈黙が流れるだけだ。
かと言って、立場的に寒梅から無駄口を叩けるはずもない。
ただただ気まずいだけの食事だった。せっかく蓮に教わりながら作った美味しいはずの料理も、味がよくわからない。
残念だったな、と思いはするも、また明日、違う料理を習いたいと思えば少し楽しみではある。
片づけを終えて離れに戻り――月龍が追ってきたのは、いつもよりも早い時間だった。
不機嫌そうだったから、今日は来ないだろうと思っていたのに。
「お茶を淹れて参ります」
「これは――」
深々と頭を下げ、厨に向かいかけた寒梅の足を留まらせたのは、月龍が発した小さな声だった。
振り向くと、月龍が愕然と目を瞠っている。視線が向かう先には、卓に置かれた砂糖菓子があった。
「これは、彼女が作ったものか……?」
量が多くて食べきれなかったのだけれど、そうしたら蓮が持たせてくれた。数日は日持ちがするというから、毎日少しずつ食べようと楽しみにしている。
「ひとつもらっても……?」
雇い主からの頼みを断るなどあり得ない。それに、いくら楽しみにしているからと言って、人と分けることを嫌だと思うほどに卑しくはなかった。
どうぞ、と答えると、月龍はひとつつまんで口に入れる。
「――甘いな」
「美味しいですよね」
笑顔で話しかけて、ふと気づく。
蓮は言っていた、あの方はこの菓子が嫌いなのだと。
もし嫌いならば、自分から言い出して欲するはずがない。
けれど好きだと言うなら、もっと嬉しそうな顔をするのではないか。あのように甘い物を口にしたにもかかわらず、月龍は苦虫を噛み潰したような顔をしている。
「彼女がこれを、君のために作ったのか」
低い声だった。今まで月龍が、このような恐ろしげな声を発したことはない。初めて耳にする、そこになにかごりっとしたものを感じる月龍の声に、背筋がぞくりとした。
「お、お茶を淹れて参ります」
再度そう宣言して、逃げるように厨へと走る。
もっとも、逃げても時間稼ぎにしかならない。お茶の準備をして居間に戻ってくると、月龍はいつものように卓の前で胡坐をかいて座っていた。
いつもならば、お茶を目の前に置くと「ありがとう」と礼を言ってくれる。だが今日は声も発さず、飲もうともしない。
しかも、「今日の公主の様子を聞かせてほしい」と促されるのに、それさえもなかった。
「あ、あの、蓮様のご様子について、ですよね」
食事のときの気まずさを思い出し、寒梅の方から話しかける。
とたん、月龍がはっと顔を上げた。
なにをそれほど驚くのだろう。おかしなことなどないはずなのに。
「公主のことを名で呼ぶようになったのか。――蓮、と」
ああ、仲良くなれたことに驚いたのか。思い、納得する。
蓮が自殺を図った、だから近くに人を置いて見守りたい。どうせならば同じ年頃の少女の方が蓮の気も安らぐだろう、そのような理由で寒梅は下女として選ばれたのだ。
ならば蓮と打ち解けられたことは、月龍にとっても喜ばしいことだろう。
「蓮様が、そう呼んでほしいと仰られて」
「――彼女が」
「それに、今日は色々とお話をしてくださいました」
なにもせず、日がな一日呆然と窓の外を眺めていた様子を聞いてさえ、月龍は安堵していた。
ならばああやって、悲しげなところはあったにせよ、笑顔を交えながら話をしていたことを聞けば喜ぶに違いない。
「話?」
なんの話をしたのか、と促されるのは当然の流れだった。
話の内容を思い出し、ふと口を噤む。蓮に頼まれたことを、そのまま伝えてもいいのだろうか。そこまで考えずに口走ってしまったことを、少し後悔する。
だが、そもそも月龍から仰せつかったのは「蓮の言動をすべて報告すること」だ。黙っていたら、契約違反になる。
それに、蓮の頼みは月龍に関係する。むしろ知らせていた方がいいのかもしれない。
「その――蓮様は子供が産めないから、代わりに月龍様の子を産んであげてほしい、と」
月龍は最初からそのつもりなのではないか、と蓮が推測していたことは言わない。さすがにそれは、図々しすぎる気がした。
月龍の眉間に、深いしわが刻まれる。鼻根にまで寄ったしわを見れば、不快なのは一目瞭然だった。
「そして第一子を、蓮様の養子にさせてほしいと頼まれました」
寒梅が言い終わるよりも早く、月龍が盛大なため息を吐いた。