第93話 承諾
文字数 1,402文字
月龍の中で、婚姻はすでに最重要事項ではない。重要なのは、蓮が傍に居てくれることだ。逃がさないための手段でしかない。
たとえ結婚できずとも、蓮が横に居てくれるのならば構わなかった。だが、将来のない男の傍に、公主をいつまでも置いているわけにはいかない。
縁談を正式に持ち出した以上、必ず認めてもらわなければならなくなったのだ。
もし許しを得られなければ、どうするべきか。月龍はすでに肚を決めていた。
蓮に言ったように、皆を殺すつもりはない。できるわけもない。
ただ蓮を攫って、他国に逃げるだけだ。
かえってその方がいいのだろうか。そうしたら周囲はすべて見知らぬ人間になる。その環境であれば、蓮も月龍を頼ってくれるかもしれない。
「お兄さま……!」
悲鳴にも似た呼びかけを発すると同時、蓮は榻から跳び退いた。
「お願いします、どうか――どうか、私たちを一緒にさせてください」
平伏しての懇願など、兄妹の間で行われるものだろうか。男同士であれば兄弟とはいえ主従関係にも近く、ありえるはずだ。
けれど、趙靖は年の離れた妹を溺愛している。また、蓮にあった相手かまわず飛びつく癖は、亮だけでなく兄に対しての接し方のせいだとも聞いていた。
ならばこのような懇願はむしろ、趙靖に違和感を覚えさせるだけではないのか。
――否、そうやって蓮自身の異常を、兄に伝えようとしているのかもしれない。
邪推するも一瞬、考え事などしている場合ではないと気づく。蓮が平伏しているのだ。月龍だけがのうのうと座っていていいはずがない。
「何卒、どうか――」
叩頭して、短い嘆願の言葉を発する。
実際は、さほどではないのかもしれない。けれど落ちた沈黙は、無限にも思える長さに感じられた。
ふぅ、と趙靖がため息を洩らす。
「蓮、頭など下げる必要はない。邵殿もだ」
頭を下げられても許すつもりなど毛頭ない――続けられる台詞が予想できて、吐き気すら覚えるほどの痛みが意を襲う。
「――否、月龍殿と呼ばせてもらった方がいいのか」
月龍。字 を呼ばれて、固く閉じていた目を開く。未だ頭を上げられていないので、ただ愕然と見開いた目で床を見つめていた。
姓名ではなく、言い換えてまで字を口にしたのは、月龍を認めてくれるという意味だろうか。
「それでは、趙公――」
「趙公」
床を見つめたまま口を開いた月龍を遮ったのは、趙靖の呆れた口調だった。
「そう他人行儀に呼ばれるのは、好きではないな。せっかく弟ができると喜んでいるのに、水を差される気分だ」
弟――今、趙靖は確かにそう言った。声音は低くあっても、先ほどまでのような圧はない。
口調も、随分と柔らかくなっていた。ふざけた物言いが、どこか亮を思い出させる。
「――元譲 、様」
意を決して、趙靖の字を呼ぶ。
以前、さらりとその名を口にした亮に対して、嫉妬じみた羨望を抱いたことがあった。仮に蓮と婚姻を結ぶことになっても、そう親しげに呼びかけるなどないと思っていたというのに。
おそるおそる、顔を上げる。そこで見た趙靖は、穏やかに目を細め、口角を上げていた。
――笑っている。
「うん?」
満足気な顔だった。大人が幼子を促すような返事に、背を押される。
「それでは――お許しいただけるのですか」
「反対する理由がどこにある?」
片眉を上げた、呆れた表情。先ほどまでの威厳ある態度が作りものなら、偽りを脱いだ趙靖は、とても亮に似ていた。
たとえ結婚できずとも、蓮が横に居てくれるのならば構わなかった。だが、将来のない男の傍に、公主をいつまでも置いているわけにはいかない。
縁談を正式に持ち出した以上、必ず認めてもらわなければならなくなったのだ。
もし許しを得られなければ、どうするべきか。月龍はすでに肚を決めていた。
蓮に言ったように、皆を殺すつもりはない。できるわけもない。
ただ蓮を攫って、他国に逃げるだけだ。
かえってその方がいいのだろうか。そうしたら周囲はすべて見知らぬ人間になる。その環境であれば、蓮も月龍を頼ってくれるかもしれない。
「お兄さま……!」
悲鳴にも似た呼びかけを発すると同時、蓮は榻から跳び退いた。
「お願いします、どうか――どうか、私たちを一緒にさせてください」
平伏しての懇願など、兄妹の間で行われるものだろうか。男同士であれば兄弟とはいえ主従関係にも近く、ありえるはずだ。
けれど、趙靖は年の離れた妹を溺愛している。また、蓮にあった相手かまわず飛びつく癖は、亮だけでなく兄に対しての接し方のせいだとも聞いていた。
ならばこのような懇願はむしろ、趙靖に違和感を覚えさせるだけではないのか。
――否、そうやって蓮自身の異常を、兄に伝えようとしているのかもしれない。
邪推するも一瞬、考え事などしている場合ではないと気づく。蓮が平伏しているのだ。月龍だけがのうのうと座っていていいはずがない。
「何卒、どうか――」
叩頭して、短い嘆願の言葉を発する。
実際は、さほどではないのかもしれない。けれど落ちた沈黙は、無限にも思える長さに感じられた。
ふぅ、と趙靖がため息を洩らす。
「蓮、頭など下げる必要はない。邵殿もだ」
頭を下げられても許すつもりなど毛頭ない――続けられる台詞が予想できて、吐き気すら覚えるほどの痛みが意を襲う。
「――否、月龍殿と呼ばせてもらった方がいいのか」
月龍。
姓名ではなく、言い換えてまで字を口にしたのは、月龍を認めてくれるという意味だろうか。
「それでは、趙公――」
「趙公」
床を見つめたまま口を開いた月龍を遮ったのは、趙靖の呆れた口調だった。
「そう他人行儀に呼ばれるのは、好きではないな。せっかく弟ができると喜んでいるのに、水を差される気分だ」
弟――今、趙靖は確かにそう言った。声音は低くあっても、先ほどまでのような圧はない。
口調も、随分と柔らかくなっていた。ふざけた物言いが、どこか亮を思い出させる。
「――
意を決して、趙靖の字を呼ぶ。
以前、さらりとその名を口にした亮に対して、嫉妬じみた羨望を抱いたことがあった。仮に蓮と婚姻を結ぶことになっても、そう親しげに呼びかけるなどないと思っていたというのに。
おそるおそる、顔を上げる。そこで見た趙靖は、穏やかに目を細め、口角を上げていた。
――笑っている。
「うん?」
満足気な顔だった。大人が幼子を促すような返事に、背を押される。
「それでは――お許しいただけるのですか」
「反対する理由がどこにある?」
片眉を上げた、呆れた表情。先ほどまでの威厳ある態度が作りものなら、偽りを脱いだ趙靖は、とても亮に似ていた。