第200話 抱いて

文字数 3,218文字

 ずっと俯いていたせいか、それとも月龍の気分を害してしまった負い目のせいか。邸宅に戻る頃、蓮はすっかり馬車に酔い、嘔吐感と共に意識が白濁する。

「蓮?」

 視界に映るのは、いつにも増して青白い自分の手。顔色もきっと、同様なのだろう。馬車を止めて初めて蓮の様子に気づいたらしく、隣りから顔を覗きこんでくる。

「――馬車に酔ったのか?」

 心配げな問いかけに、意地を張る気力も残っていない。ただかすかに、首を縦に振る。
 自力で歩ける状態ではないと察したのだろう。月龍は馬車を下り、回り込んできてから蓮を抱き上げた。

 こうやって運んでもらうのが好きだった。力強い腕に支えられていると、守ってもらっているのだと実感できる。月龍の体温を感じて、幸せな気分になれる。
 一層のこと、いつも体調が優れぬふりをしていたらずっとこうしていられるのかもしれない。流産のあと、看病してくれていたときのようにずっと傍に居てくれるのかも。
 目を閉じ、うっとりと月龍の胸に頬を寄せる。

 だが幸せな時間がそう長くもなかった。すぐに寝所に運ばれ、臥牀に下される。端に腰かけ、枕元の水差しから注がれた水を受け取った。
 こくりと、ひと口だけ水を飲む。水の冷たさが胸を内側から冷やしてくれた。もうひと口続けて、ようやく人心地つく。

「少しは落ち着いたか」

 看病慣れしているからか、月龍の動きにはそつがない。水の入った盃を蓮から受け取ると、臥牀の脇に跪き、心配そうに下から覘きこんできた。

「もう、大丈夫です」

 ごめんなさいと続けたものか、ありがとうと言うべきか、少し迷う。

「――ごめん」

 ほんの短い沈黙の間に言ったのは、月龍だった。え、と上げた蓮の視線を交わすように、横を向いて俯く。

「操縦が乱暴だった。そのせいで酔ったのだろう。動揺していたものだから、つい」

 謝罪する口から深いため息が洩れ、それを隠そうとするように、月龍の唇に自嘲めいた笑みが浮かんだ。

「まったく、今日はどうかしている。いつもは抑えられるのに――今日は感情が、うまく制御できない」

 最後には、頭を抱えてしまう。
 言われてみれば、たしかにその通りだった。帰ってきてすぐには満面の笑みを刻んでいたし、蓮が養子の件を断ったときには泣き出しそうな顔もした。
 皮肉を口にしたり、怒気をあらわにしたり、いずれも近頃の月龍にしては珍しい様子だったと思う。

 ――もしかしたら、今ならば本音を探り出せるのではないか。なにを望んでいるのか、そのためになにか蓮にできることがわかるかもしれない。

「そのようなところにいないで――座って」

 床に跪いたままの月龍に、隣りを手で叩いて見せる。極力柔らかな声を作ったつもりだけれど、成功しているのだろうか。やかましい心臓の音で、自分の声を聞き取ることもままならない。
 本当は、笑って見せたかった。けれど強張った頬が言うことを聞いてくれない。驚きに瞠った目で見上げてくる月龍に、促すようにただ首肯して見せた。
 蓮に逆らう気はないのか、戸惑いを浮かべながらも隣りに腰を下ろす。何故か月龍の顔を見ていられなくて、彼の肩に頭を預けた。

「まだ辛いのか。ならばもう横になって――」
「大丈夫です」

 慌てたように、心配したように言う月龍に、首を左右に振って見せる。

「それよりも、あなたに訊きたいの。あなたは――子供が欲しいの?」

 なるべく硬くならず、感情を押さえた調子で問う。蓮の様子で返答を変えてしまわないためだ。
 質問に、月龍の肩がぴくりと反応する。

「また愛妾の話か」

 はっ、と、失笑とも嘆息とも取れぬものを洩らした月龍の声に、はっきりとした苛立ちが浮いていた。

「君は構わないのだろうが――むしろ他に女でも作って解放してくれれば、くらいに思っているのだろうが、他の女に触れる気はない」
「けれど、それでは」
「安心してくれ。無論、君にもだ」
「――私が、望んでも?」

 月龍に訊ねられたことがある。望まれたからではなく、気を引くためでもなく、求めてくれたことが一度でもあったのか、と。
 あのとき、答えることができなかった。月龍との行為は、恐怖が先立ってしまうのは事実だったからだ。
 どうしても、初めてのときの恐怖と痛みを思い出す。体は慣れ、痛みを感じなくなっても、押さえつけられ、怒鳴りつけられた怖さを心が覚えている。
 けれどそのあと、月龍の腕に包まれて眠るのは好きだった。だから我慢できた。与えられるだけでなく、与えなければ平等ではない。
 ――否、恐怖を覚えていてもなお、「求められている」ことが実感できたのが嬉しかったのかもしれない。

「今――なんと?」
「ですから、私はあなたに抱かれたい、そう申し上げました」

 胸が痛くなるほどの鼓動に眩暈を覚えながらも、勇気を振り絞って口にした。

 どうして今まで思いつかなかったのだろう。
 月龍はいつも、蓮に嫌われているという前提で話を進める。その条件が誤りだと告げれば、体裁を整えることができなくなる。
 言葉通り、本当に蓮を愛しているのならば喜ぶはずだ。
 蓮を嫌っているのなら、なにかしら理由をつけて拒むに違いない。

 いずれにせよ、月龍の本音を知ることができる。

「――嘘だ」

 肩に寄り添っていた蓮を振り払うように体をゆすった後、月龍は両手で自分の頭を抱えた。

「何故そのようなことを言う? 君を傷つけると承知で、抱けるはずがない。それほどおれを苦しめたいのか。――頼むから、もう許してくれ」

 ――ああ、やはり。

 寂しさが、じわりと深く、広く胸を侵食していく。
 蓮を思いやるという体裁は崩さなかった。代わりに、理由をつけて触れることを拒絶した。

 やはり愛されてなどいなかった。
 寂しいのに、何故か安堵する自分にも気づいていた。

 けれどもう、引き返せない。
 月龍は感情が抑えられなくなっていると言っていたが、蓮もまた同じだった。
 抱き上げられ、寄り添い、体温を肌で感じてしまったせいだろうか。恥や意地になどこだわっていられない。
 もっと傍に居て、ずっと抱きしめていてほしかった。

「――月龍」

 敬称もつけず、字で呼びかけるのはどれくらいぶりなのか思い出すのも難しい。
 月龍は、はっと振り向いた。驚きに目を大きく開き、頭を抱えていた手が外れる。
 そっと両手を伸ばして、月龍の首の後ろに手首をかけた。
 力を加える。強引にではないけれど、促す程度の強さを持って、月龍の顔を自分の方へを近づけた。

 二人の唇が重なる。涙が溢れそうなほど、懐かしい感触だった。
 同じように感じてくれたのだろうか。愕然と見開かれていた月龍の目が、閉じられたのを気配で察する。
 月龍の手が、蓮の頬に触れた。撫でてくれる優しい手つきが、心に染み入ってくる。

 初めは様子を探るような口づけだった。次第に深くなり、貪るものに変化する。蓮もそれに、精一杯応えた。

「――いいのか、本当に」

 交わす口づけの合間、わずかにずらした唇で発せられたのは、低い囁きだった。声には甘い響きが伴い、至近距離で見つめ合う月龍の瞳には、欲望と逡巡が交錯している。
 欲望は、口付けによってもたらされたもの。逡巡の意味は、蓮にもわからない。

 もしかしたら月龍が欲するのは「女」であって、蓮はほしくない、そういう意味だろうか。
 欲に駆られて抱き、そのせいで思い上がった蓮がまた、つきまとったり縋ったりするのを懸念しているのかもしれない。
 けれど、迷うくらいならばまったく望みがないわけでもないのだろう。だとしたらなにかあとひとつ、月龍に利点を与えてやれば、蓮の望みを叶えてくれる可能性はあった。

 ――ああ、そうだ。

 心配げな月龍の瞳を見つめていて、思いつく。
 これならばきっと、喜んでくれる。そう思えば、自然と自分の口元がほころぶのを感じていた。
 応えるように、月龍の唇にも喜色が浮かぶ。

 そして、蓮は言った。

「抱いて下さったら、舌を噛んで死んであげる」
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

月龍《ユエルン》

古代中国、夏王朝の武官。

武に関しては並ぶ者なきと評される腕前。

無愛想で人の機微に疎い。

有力な宦官の孫として養子に入る。出生に秘密あり。

蓮《レン》

王の姪。王子の従妹。

穏やかだけれど型破りなところのある、小柄な少女。

月龍との出会いで、人生が一変する。


亮《リーアン》

夏王朝の第一王位継承者。

蓮のいとこ、月龍の親友。

亮を出産時に母が死亡し、妃を溺愛していた父王からは仇のように嫌われている。

絶世を冠するほどの美青年。頭脳明晰。

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み