第167話 喉元
文字数 1,093文字
「――蓮」
かけられた声に、びくりと身が竦む。
慌てて月龍の前から逃げ出したけれど、本当の意味での逃げ場所などこの邸内の何処にもない。
思わず飛び込んだ寝所の奥に蹲り、震える体をかき抱いていた。
「入るよ」
「来な、いで」
月龍から発せられるのは、穏やかな声だった。だが連には、その優しい調子さえ恐ろしい。
反射的に上げた拒絶に、部屋の一番奥に居てさえ聞こえるほど、月龍が深いため息を吐いた。
「大事な話だ。君にとっても悪い話ではないと思う。だから、頼む」
大事な話、と月龍は言う。あのようなことの後で、一体なにを話そうというのか。
言い知れぬ恐怖に襲われるも、逃れる術がないことも知っている。今度はもう、否定を口にしなかった。
沈黙を了承と受け取ったのだろう。月龍はそっと扉を開き、ゆっくりと歩み寄ってくる。
その顔に浮かぶのは、声から連想される通りの優し気な笑みだった。
なんと不自然なことか。
殺されそうになったのだから、声を荒らげるのが当然の場面だ。まして気の短い月龍ならば、怒りのままに暴力を振るうだろうに。
蹲る蓮の正面に立った月龍が、ふっと笑声を洩らす。そして、床に跪いた。
「忘れ物だ」
言いながら、抜身のままの懐剣を差し出してくる。
刃ではなく、柄の方だった。蓮を刺すような気配も、まるで感じられない。
月龍は文字通り、懐剣を返そうとしているだけなのか。思うけれど、恐怖で体が竦んで動けない。受け取るために手を伸ばす動作でさえ、難しかった。
怯えた目つきで、蓮の状況を知ったのかもしれない。月龍は肩を竦めると、そっと蓮の右手を取る。
決して乱暴にではない。月龍の手つきは、壊れ物に触れるような優しいものだった。
けれど、怖い。触れられることそのものへの恐怖にまた、身が竦む。
「大丈夫。君に危害など加えない」
ふと、口元に苦い笑みを滲ませた月龍は、蓮の右手に懐剣を握らせる。
そのまま手を放してしかるべきなのに、月龍はさらにもう片方の手も添え、両手でしっかりと蓮の手を包み込む。
「このようなものでは、おれは殺せない。少なくとも、胸や腹への一突きくらいでは」
月龍はあくまで穏やかな調子のまま、物騒なことを口にする。蓮の手の甲を撫でる手つきも、いかにも愛しげなものだった。
「よほどうまく急所を突かない限り、君の力では無理だ。よくて重傷、悪ければ軽傷くらいだろう。君の力で確実に殺そうと思えば――」
蓮の胸元にあった手が、なされるがまま上方へと移動する。そして月龍の喉元に、ぴたりと刃を突きつけさせられた。
「ここだ」
刺してくれ。
蓮を見つめていた月龍の目が、笑みの形に細められた。
かけられた声に、びくりと身が竦む。
慌てて月龍の前から逃げ出したけれど、本当の意味での逃げ場所などこの邸内の何処にもない。
思わず飛び込んだ寝所の奥に蹲り、震える体をかき抱いていた。
「入るよ」
「来な、いで」
月龍から発せられるのは、穏やかな声だった。だが連には、その優しい調子さえ恐ろしい。
反射的に上げた拒絶に、部屋の一番奥に居てさえ聞こえるほど、月龍が深いため息を吐いた。
「大事な話だ。君にとっても悪い話ではないと思う。だから、頼む」
大事な話、と月龍は言う。あのようなことの後で、一体なにを話そうというのか。
言い知れぬ恐怖に襲われるも、逃れる術がないことも知っている。今度はもう、否定を口にしなかった。
沈黙を了承と受け取ったのだろう。月龍はそっと扉を開き、ゆっくりと歩み寄ってくる。
その顔に浮かぶのは、声から連想される通りの優し気な笑みだった。
なんと不自然なことか。
殺されそうになったのだから、声を荒らげるのが当然の場面だ。まして気の短い月龍ならば、怒りのままに暴力を振るうだろうに。
蹲る蓮の正面に立った月龍が、ふっと笑声を洩らす。そして、床に跪いた。
「忘れ物だ」
言いながら、抜身のままの懐剣を差し出してくる。
刃ではなく、柄の方だった。蓮を刺すような気配も、まるで感じられない。
月龍は文字通り、懐剣を返そうとしているだけなのか。思うけれど、恐怖で体が竦んで動けない。受け取るために手を伸ばす動作でさえ、難しかった。
怯えた目つきで、蓮の状況を知ったのかもしれない。月龍は肩を竦めると、そっと蓮の右手を取る。
決して乱暴にではない。月龍の手つきは、壊れ物に触れるような優しいものだった。
けれど、怖い。触れられることそのものへの恐怖にまた、身が竦む。
「大丈夫。君に危害など加えない」
ふと、口元に苦い笑みを滲ませた月龍は、蓮の右手に懐剣を握らせる。
そのまま手を放してしかるべきなのに、月龍はさらにもう片方の手も添え、両手でしっかりと蓮の手を包み込む。
「このようなものでは、おれは殺せない。少なくとも、胸や腹への一突きくらいでは」
月龍はあくまで穏やかな調子のまま、物騒なことを口にする。蓮の手の甲を撫でる手つきも、いかにも愛しげなものだった。
「よほどうまく急所を突かない限り、君の力では無理だ。よくて重傷、悪ければ軽傷くらいだろう。君の力で確実に殺そうと思えば――」
蓮の胸元にあった手が、なされるがまま上方へと移動する。そして月龍の喉元に、ぴたりと刃を突きつけさせられた。
「ここだ」
刺してくれ。
蓮を見つめていた月龍の目が、笑みの形に細められた。