第204話 赤い花
文字数 2,467文字
訓練になど、身が入るわけがなかった。一日、なにをしたのかも覚えていない。昨夜の光景がずっと、頭の中をぐるぐると回っていた。
歓喜から哀しみへ、そして怒り、また歓喜が訪れ最後に絶望に見舞われた。いかに薬の反復作用とはいえ、昨日の感情の起伏はあまりに酷すぎた。一睡もできなかったこともあり、心身共に疲れ果てていた。
目を閉じると、蓮の顔が瞼の裏に浮かぶ。舌を噛んで死んでやると言ったときの嬉しげな笑みと、それを刻んだやけに鮮明な紅唇が。
部屋の前に立ち、肺を空にするようなため息を吐き出す。
昨夜の謝罪と弁解をしなければならない。そして、もっと自分自身を大切にしてほしいと説得しなければならなかった。
素直に聞き入れてくれるとは思えないけれど。
意を決して、扉を開ける。いつもであれば、蓮が食事を用意して待っていてくれる。
けれど今日は、卓の上に一人分の食事が置かれているだけで、人の気配はない。
「――蓮?」
名を呼んでみるが、返事はない。
顔を見辛く思っていたから、咄嗟に安堵する。しかしすぐに、嫌な予感に襲われた。
既視感の方が近いだろうか。以前にも、一人分の食事だけを用意していたことがあった。
あのとき蓮は、別れの挨拶のあと出て行くつもりだったが、今はそこに姿もない。
もしかしたら、挨拶もせずに出て行ったのかもしれない。
焦燥感に、まずは庭へと出る。居間にいないとき、庭の手入れをしていることもあったからだ。
けれど、庭にもいなかった。益々、焦りにとりつかれる。
疲れて、もう休んでいるのかもしれない。願望を交えた発想のもと、寝所へと向かった。
眠っているのならば、起こさないようにしないと。思うのに、気が急いて足音が高くなる。扉を開くのも、決して静かとは言えなかった。
扉の向こう、二間続きの奥にある臥牀が見える。その上に、蓮の姿があった。
安堵のために脱力する。首を絞めるという暴挙に出てしまった。逃げられて当然だと思うから、そこにいてくれた、それだけで嬉しかった。
「――眠っているのか?」
ゆっくりと臥牀に近づきながら、呼びかけてみる。返事はなかった。やはり眠っているのだろう。
そっと覗きこむと、蓮の瞼が閉じられているのが見える。
顔色が悪かった。やはり昨夜、一時的とはいえ、血の巡りが塞き止められたのが悪かったのだろう。青白い顔には、苦しげな表情も浮かんでいる。
喉元には、月龍の手の痕が痣となって残っていた。痛々しいと思うのと同時、それが自分の所業だと考えればいたたまれなくなる。
額に滲む脂汗を、そっと拭ってやった。悪い夢でも見ているのか、魘されているように小さく呻く声が唇から洩れる。
起こして月龍の顔を見せても、嫌な思いをさせるだけだろうか。
休ませてやりたい気分と、昨夜の弁明を後日に伸ばせるという逃げと、両方とも月龍の本音だった。
――知ったら、怒るだろうな。
昔は寝る前の挨拶だった口づけを、蓮の頬に落とす。蓮が眠っている間だけ、知られぬように過去の幸せを再現させるのだから、我ながら卑怯だ。
唇を離し、屈めていた身を起こす。異臭に気づいたのは、そのときだった。
空気に混じるのは、血臭。
――まさか。
迷わず布団に手をかけ、勢いよく跳ね飛ばす。
「――――っ!」
予想した通りの光景が広がっていた。
蓮が身につけた衣服は血に染まり、敷かれた布団にも鮮やかな赤い花を咲かせている。
右手に握られた懐剣、左手首の内側には赤い線が引かれていた。蓮を濡らした血液は、すべてその傷口から流れ出たものだ。
疑う余地はない。蓮は、自殺を図ったのだ。
「何故だ!」
悲痛な叫びを振り絞る。
あと一カ月足らずで月龍は出征する。即座の戦死はなくとも、蓮の傍から離れていることに変わりはない。
それほどまでに嫌いなのか。ほんのわずかな時間を共にすることも我慢ならないほどに。
苦痛を与えるために殺させようとし、さらには自害までしようとするほどに。
自分の袖を裂き、蓮の傷口に巻きつけて応急処置をする。さらに止血のため、蓮の肘のあたりを縛った。作業の間も止まらぬ涙を、時折自らの腕で乱暴に拭う。
腕を縛られる圧力に、痛みを覚えたのだろうか。気を失っていた蓮が意識を取り戻したらしく、うっすらと目を開いた。
上体を抱いていた月龍と目が合う。瞬間、蓮の顔に怯えが広がった。
「――離して」
手首に巻かれた布を見つけたのか。浅く、荒い呼吸の中、掠れた声で言いながら身をよじって、月龍の腕から逃げようとする。
「嫌だ!」
反射的に叫ぶ。逃れようとする蓮を押しとどめるために、力をこめて抱きしめた。
「死なせてたまるか……!」
「――どう、して?」
蓮の肩に顔を埋めて叫ぶ月龍とは対照的に、消え入りそうな声で呟く。涙の成分が、震え声の大半を占めていた。
抱きしめる月龍の肩を、蓮の小さな両手が掴む。押し返そうとしているのだろうが、全然力が入っていなかった。
「お願い――死なせて」
苦しそうに呻く、囁き声だった。
再び意識を失ったのだろう。元々力の入り切っていなかった蓮の手から、完全に力が抜けて垂れ下がる。
逆に、蓮を抱く月龍の手にはさらなる力が入った。
死なせて、と蓮は懇願した。傍に居るくらいなら死を選ぶ、そう宣言されたに等しい。遠からぬ将来の幸せを捨ててまで現状が耐えられぬのだと。
否、違う。違っていてほしい。
養子を提案し、形だけでも夫婦らしくあろうとした月龍を諫めるためではないか。しかも、抱けと挑発されたらすぐに応じようとした浅ましさに腹が立ったのかもしれない。
月龍の思い上がりを叩き潰すために、このような真似をしたのではないか。
そうであった方がいい。それならば本当に死ぬ気がなかったことになる。
けれど、本当に死を望んでいたら? 片時も傍を離れずにいられるわけではない。月龍の目を盗んで、またいつ自害しようとするかわからない状況が、怖かった。
考えも、想いもまとまらない。ただ、一晩中蓮を抱きしめて泣くことしかできなかった。