第127話 血

文字数 1,455文字


 刃が翻った瞬間、蓮の手首に紅の線が一本、走っていた。
 痛みに、眉が微かに反応する。
 喉元に突きつけられていたのだから、そのまま刺されるのだと思っていた。一瞬の苦痛ですべてが終わる。――楽になれると考えていたから、痛みよりも驚きの方が強い。
 鮮血が腕を、そして肘を伝って臥牀を濡らす。

「お前は俺のものだ。たとえ死という形にせよ、逃げられるとは思うな」

 低く囁いて、月龍は頭を深く沈めた。蓮の肘から垂れる滴に口付ける。するすると赤い液体を舐めとりながら、舌が腕を這い上ってくる感触は気味の悪いものだった。
 口づけは傷口にまで到達し、鼓動に合わせて溢れる血液を飲む様は、常軌を逸している。

 眩暈は貧血のせいばかりではない。恍惚さえ浮かべた月龍の残虐な行為が、蓮の気を遠くさせる。
 ふらりと傾いた体は抱き竦められ、臥牀へと押し倒される。ようやく蓮の傷から口を離した月龍に、安堵する間もなかった。再び、刃が閃く。
 新たにできた傷は、月龍の右手首にあった。
 まるで痛みを感じていないのか、眉も歪めない。傷口から飛んだ血飛沫が月龍の顔を、滴った赤い滴が蓮の顔を濡らす。

「そして――おれもお前のものだ」

 朦朧としていた蓮は、口元に月龍の手首を押し当てられたことで、はっと我に返った。
 左手で両頬を掴まれ、強制的に開かされた口に、月龍の傷から流れ出る血液が入ってくる。
 血の滴る手首を銜えさせてくる男――視覚的な恐怖だけでも凄まじいのに、口中には血の味が広がっていた。

 平気でいられるはずがない。月龍の手を振り払い、なんとか顔を背けて吐き出す。
 けほけほと咳き込む蓮に、月龍は薄く笑った。

「吐くな。ちゃんと飲みこめ」

 蓮は答えない。嫌だと返事のために口を開けば、また傷口を押しつけられるのは目に見えていた。
 きゅっと歯を食いしばる蓮に、月龍は呆れたような笑みになる。
 聞き分けのない子供を見るような、妙に優しい眼差しがかえって気味悪かった。
 蓮が口を開かないとわかると、月龍は自ら傷口に唇を寄せる。

 狙いなど、考えるまでもない。口中に自分の血を含んだまま、蓮へと口づけてきた。
 必死で口を噤んでいたが、執拗に続く口づけに息を奪われてとうとう開く。そこから注ぎ込まれる血液を、蓮が飲みこむまで唇を解放してくれなかった。

 喉を通って行く生暖かい感触と充満する血の匂いに、吐き気が込み上げてくる。けれど今吐き出しては、また同じことをくり返されるだけだ。
 幾度も経験させられるなど、耐えられない。嘔吐感もろとも飲みこむも、激しく咳き込むことだけは止められなかった。

 満足気に笑んで、月龍は衣服を脱いで体を重ねる。
 蓮にとっても月龍にとっても、すでに慣れた行為であり感触だった。蓮は痛みのない苦痛に、月龍は――おそらく愉悦に、眉を歪める。

 ぬるぬると気持ちの悪い感触に、月龍が自分の手首を蓮の手首にこすりつけていることを知った。
 擦れる度に、傷が痛む。
 刺激され、増す痛みでさえ悦楽に繋がるのだろうか。月龍はいつも以上に陶酔した表情で、ああ、と血の匂いがする息を吐き出す。

「愛している、蓮。絶対に離れない。ずっと傍に居てあげる。ずっと――」

 まるで蓮が望み、せがんでいるかのような口ぶりと、奇妙なまでに優しい口調。
 すでに蓮の耳は、月龍の声音にも言葉にも反応しない。意識を失う瞬間に認識したのは、二人の血で顔を汚しながら、恍惚のために目を閉じた月龍の姿だった。

 月龍は蓮が失神したことにも気づかず、ひとりただ悦に入った様子で犯し続けた。
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登場人物紹介

月龍《ユエルン》

古代中国、夏王朝の武官。

武に関しては並ぶ者なきと評される腕前。

無愛想で人の機微に疎い。

有力な宦官の孫として養子に入る。出生に秘密あり。

蓮《レン》

王の姪。王子の従妹。

穏やかだけれど型破りなところのある、小柄な少女。

月龍との出会いで、人生が一変する。


亮《リーアン》

夏王朝の第一王位継承者。

蓮のいとこ、月龍の親友。

亮を出産時に母が死亡し、妃を溺愛していた父王からは仇のように嫌われている。

絶世を冠するほどの美青年。頭脳明晰。

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