第161話 何故
文字数 1,856文字
食事を持って入ってきた月龍の姿に、蓮は露骨に眉をしかめた。
嫌がられる覚悟はしていたが、ここまであからさまな反応を見せられればさすがに強い切なさに襲われる。
本当は、蓮の目覚めを待ってすぐに会いに行こうと思っていた。しかし月龍自身も限界を超えた疲労のために昏々と眠りこみ、目が覚めたときにはすでに日が頂上近くまで上っている時刻だった。
慌てて起き出し、すぐにも駆けつけようとして思い直す。昨夜はなにもできず、ぼろ布のような衣服のままで臥牀に倒れ込んだ。傷の手当てすらしていない。
はやる気持ちを抑えながら湯浴みをし、髭を綺麗に剃り落とした。全身に及ぶ擦り傷に薬を貼り、包布を巻きつける。その上からゆったりと衣服を身に纏うと、体の傷はすっかり隠すことができた。
ただし、亮に与えられた頬の打撲痕と悴顔までは隠せないが、その程度のことで蓮が心配してくれるとも思えず、気にかけるほどではないだろう。
蓮の部屋――かつての二人の寝所へ向かい、その扉の前で范喬 と出会った。
月龍の目を真剣な眼差しで覗きこんでくる。正気かを確認するためだろう。認識して、月龍も范喬の目を見つめ返した。
やがて破顔したのは、安堵のためか。范喬は持っていた蓮用の食事を、月龍に渡した。どうせなら、あなたから食べさせてあげてください、と。
あなたの分も用意しましょうとの申し出には、頭を振った。腹は減っているはずなのに、食欲がまったくない。むしろ、渡された粥の匂いだけで嘔吐感がこみ上げてくるほどだった。
それでも、具合の悪さなど気にならなかった。嬉しくさえある。ほんの些細なことでも蓮の世話に携われることが――蓮の役に立てることが。
だが蓮は、表情だけで月龍を拒絶した。
無論、悲しくはあった。けれど感情を表さず、虚無を貼りつけていた顔と比べれば、憎悪をぶつけてくれる方がまだいい。
それに、嫌な顔をしたものの月龍の手は拒まず、受け入れてくれた。臥牀の上で体を起こすのも、息をかけて冷ました粥も、差し出すままに口にしてくれる。
あなたの世話になどなりたくないと拒絶されることも想定していただけに、感動も一入だった。
思わず緩んだ口元を見咎めたのか、蓮の眉が不快げに撓る。
「すまない」
なにを笑っているのか、お前のせいでこれほどの目に合っているのに。無言の責めが聞こえた気がして、即座に謝る。
「こうやって、少しは君の役に立てているのだと思えば嬉しくて」
「自分で食べられます」
本心を隠しても偽っても、碌なことにならないのは骨身に染みていた。想いをそのまま口に乗せる月龍を、蓮の硬い声が遮る。
呆気にとられたのは一瞬だった。すぐに蓮の強張った頬を見つけ、唇をかみしめる。
身動きすらままならないこの状態で、食事を自分一人でなどできるわけがなかった。それでもなお蓮が断言したのは、月龍の思い上がりが許せなかったのだろう。
「――余計なことを言った。すまない」
洩れかけたため息を飲みこみ、謝罪を吐き出す。
「これからは、君の気に障る言動は避けるよう、極力気をつける。だから――どうか、君の身の回りのことをさせてほしい。せめてここにいる間だけは、どうか」
無意識に伏せていた目を上げる。蓮の反応が気がかりだった。
許してくれるだろうか。今すぐ出て行け、医師と代われ――そう言われるのではないか。
月龍がする懇願に、蓮の瞳が軽く瞠られる。
なにに対しての驚きかはわからない。さらに表情を確認したくて凝視する月龍の目から逃れるように、蓮はふいと顔を背ける。
「ここにいる間、ですか」
弱々しさの中に、硬い響きを含んだ蓮の声。ちらりとだけ向けられた瞳が、揺れているようにも見えた。
「それで――私はいつまでここに?」
いなくてはならないのか。問いたくもなるはずだ、蓮にしてみれば憎い男の傍など一刻も早く離れたいだろうから。
「ある程度体が回復するまでは、移動を避けた方がいいらしい。早く亮の元に行きたいだろうが、もうしばらく辛抱してほしい」
「亮さま?」
不快そうに眉を歪めたあと、ああ、と一つ頷く。
「正宮にと望んで下さった件、ご存じでしたの。けれど、亮さまにはお断りしました」
目を伏せながら、淡々と告げるのは感情の見えない声だった。
「何故――」
亮ほど完璧な男はいない。確実な幸せが約束されているのに、断る理由が何処にあるのか。
浮かんだ疑問は、けれど口にする前に氷解する。
蓮が今愛しているのは亮ではない。初恋の相手に望まれたとしても、心が動かなかったのだろう。
嫌がられる覚悟はしていたが、ここまであからさまな反応を見せられればさすがに強い切なさに襲われる。
本当は、蓮の目覚めを待ってすぐに会いに行こうと思っていた。しかし月龍自身も限界を超えた疲労のために昏々と眠りこみ、目が覚めたときにはすでに日が頂上近くまで上っている時刻だった。
慌てて起き出し、すぐにも駆けつけようとして思い直す。昨夜はなにもできず、ぼろ布のような衣服のままで臥牀に倒れ込んだ。傷の手当てすらしていない。
はやる気持ちを抑えながら湯浴みをし、髭を綺麗に剃り落とした。全身に及ぶ擦り傷に薬を貼り、包布を巻きつける。その上からゆったりと衣服を身に纏うと、体の傷はすっかり隠すことができた。
ただし、亮に与えられた頬の打撲痕と悴顔までは隠せないが、その程度のことで蓮が心配してくれるとも思えず、気にかけるほどではないだろう。
蓮の部屋――かつての二人の寝所へ向かい、その扉の前で
月龍の目を真剣な眼差しで覗きこんでくる。正気かを確認するためだろう。認識して、月龍も范喬の目を見つめ返した。
やがて破顔したのは、安堵のためか。范喬は持っていた蓮用の食事を、月龍に渡した。どうせなら、あなたから食べさせてあげてください、と。
あなたの分も用意しましょうとの申し出には、頭を振った。腹は減っているはずなのに、食欲がまったくない。むしろ、渡された粥の匂いだけで嘔吐感がこみ上げてくるほどだった。
それでも、具合の悪さなど気にならなかった。嬉しくさえある。ほんの些細なことでも蓮の世話に携われることが――蓮の役に立てることが。
だが蓮は、表情だけで月龍を拒絶した。
無論、悲しくはあった。けれど感情を表さず、虚無を貼りつけていた顔と比べれば、憎悪をぶつけてくれる方がまだいい。
それに、嫌な顔をしたものの月龍の手は拒まず、受け入れてくれた。臥牀の上で体を起こすのも、息をかけて冷ました粥も、差し出すままに口にしてくれる。
あなたの世話になどなりたくないと拒絶されることも想定していただけに、感動も一入だった。
思わず緩んだ口元を見咎めたのか、蓮の眉が不快げに撓る。
「すまない」
なにを笑っているのか、お前のせいでこれほどの目に合っているのに。無言の責めが聞こえた気がして、即座に謝る。
「こうやって、少しは君の役に立てているのだと思えば嬉しくて」
「自分で食べられます」
本心を隠しても偽っても、碌なことにならないのは骨身に染みていた。想いをそのまま口に乗せる月龍を、蓮の硬い声が遮る。
呆気にとられたのは一瞬だった。すぐに蓮の強張った頬を見つけ、唇をかみしめる。
身動きすらままならないこの状態で、食事を自分一人でなどできるわけがなかった。それでもなお蓮が断言したのは、月龍の思い上がりが許せなかったのだろう。
「――余計なことを言った。すまない」
洩れかけたため息を飲みこみ、謝罪を吐き出す。
「これからは、君の気に障る言動は避けるよう、極力気をつける。だから――どうか、君の身の回りのことをさせてほしい。せめてここにいる間だけは、どうか」
無意識に伏せていた目を上げる。蓮の反応が気がかりだった。
許してくれるだろうか。今すぐ出て行け、医師と代われ――そう言われるのではないか。
月龍がする懇願に、蓮の瞳が軽く瞠られる。
なにに対しての驚きかはわからない。さらに表情を確認したくて凝視する月龍の目から逃れるように、蓮はふいと顔を背ける。
「ここにいる間、ですか」
弱々しさの中に、硬い響きを含んだ蓮の声。ちらりとだけ向けられた瞳が、揺れているようにも見えた。
「それで――私はいつまでここに?」
いなくてはならないのか。問いたくもなるはずだ、蓮にしてみれば憎い男の傍など一刻も早く離れたいだろうから。
「ある程度体が回復するまでは、移動を避けた方がいいらしい。早く亮の元に行きたいだろうが、もうしばらく辛抱してほしい」
「亮さま?」
不快そうに眉を歪めたあと、ああ、と一つ頷く。
「正宮にと望んで下さった件、ご存じでしたの。けれど、亮さまにはお断りしました」
目を伏せながら、淡々と告げるのは感情の見えない声だった。
「何故――」
亮ほど完璧な男はいない。確実な幸せが約束されているのに、断る理由が何処にあるのか。
浮かんだ疑問は、けれど口にする前に氷解する。
蓮が今愛しているのは亮ではない。初恋の相手に望まれたとしても、心が動かなかったのだろう。