第62話 葛藤
文字数 1,518文字
「――だが、おれが間違っていた」
肺が空になるほど息を吐いた後、気を取り直すためにできるだけ明るい声を作る。
「蓮はおれを愛してくれている。無理に別れても、悲しませるだけだ。おそらく忘れてくれることはない」
自惚れと言われればそれまでかもしれない。だが蓮の見せてくれた昨夜の様子に、ようやく確固たる自信を持つことができた。
「蓮を守るためには、まずは内殿に居を移す。衛兵も増やすつもりだ。――なにより、絶対に死なない。戦場で、たとえ卑怯と誹られても、どのような手を使ってでも、必ず生きて戻って見せる」
「――その決断がもう少し早ければな」
決意を語る月龍に、亮がぼそりと呟く。かなり小さな独語は、月龍の耳に声として届きはしたが、意味ある言葉として聞き取るまではできなかった。
「なんだ、亮。なんと言った?」
「――いいや、なんでもない」
頭を振る様子は、とてもではないがなんでもないとは思えない。訪ねて来たときの皮肉さはなく、むしろ憔悴しているようにすら見える。
「なにかあったのか」
そういえば月龍が入って来たとき、ちょうどいいところに来た、とは言っていなかったか。話がある、と。
「ああ否……うむ」
珍しい歯切れの悪さで呟いたあと、亮は深くため息を吐く。
「――実はな、岷山が降伏してきた」
「なっ……」
言い辛そうな亮の上目遣いを前に、絶句する。
降伏もなにも、まだ戦は始まっていない。配置される軍が決まっただけだ。都すら離れていないというのに。
もっとも、岷山は弱小国だ。弱り切っているとはいえ、王朝を相手に戦えば敗北は必死だった。
どうせ王朝は兵を挙げることはないと油断しきっていたのだろう。実際に戦の構えをとられて、大いに焦ったのだろうことは火を見るよりも明らかだった。
敗戦覚悟で戦うほどの利はない。ならばと降伏を早々に決める――ありがちな話ではあった。
「税を収める、と自ら申し出て来てな。しかも、名はなんと言ったか忘れたが、美女も2人進呈してきた。懐も温まり、女も手に入れ――あの色欲じじいが断ると思うか。降伏は受け入れられ、戦話は立ち消える」
戦がなければ、武功は立てられない。武功の褒美である蓮との婚姻も、成るはずがなかった。
気勢を削がれ、半ば自失の態を見せる月龍に、亮が眉をひそめる。
「――そういうことだ。すまんな」
「否……お前が謝ることではない」
親子の情とやらからはかけ離れているとはいえ、王は亮の父親だった。身内の不始末に罪悪感でも抱いているのか、亮の面には常ならぬ神妙な表情が貼りついている。
「蓮と、すぐにも一緒になれないのは残念ではあるが……これからも機会はいくらでもある」
皇子相手に、戦を望むようなことを口走るのは不謹慎なのかもしれない。だが事実、破滅に向かう王朝内に居て戦は避けられぬし、功を立てることは今まで月龍を重用してくれた亮への恩返しにもつながる。
もっとも、その機会が延びてしまったのは残念だが――と考え始めるのは、堂々巡りの袋小路だ。
「とりあえず、状況はわかった」
軽い嘆息で、気分を切り替える。
「今できることはない。好機を、座して待つ」
「そうだな。今日のところは、もう帰れ。――蓮も待っている」
眉を歪めた苦笑に、月龍も同じ顔になる。
「たしかに。本当はこれほど、長居をするつもりもなかった。蓮と別れたと言ってしまったからな。それを撤回に来ただけだ」
あのとき亮は、「蓮をおれに返す気か」と言っていた。撤回せずにいて、本当にその気になられては困る。亮を恋敵に回して、勝てるはずなどないのだから。
ではなと片手を挙げた挨拶に、手を振って見送ってくれた亮の、どこか複雑そうな表情が何故か、妙に印象に残った。