第6話 前兆
文字数 1,372文字
「まったく、仕方のない男だ」
両手を腰にあて、ため息と共に背中を見送る。
蓮が、亮の裾を引いた。
「あの方は、私のことがお嫌いなのかしら」
何故そうなる。
問い返しそうになり、すぐに理解した。
蓮が来るのを心待ちにしていながら、いざ来るとさっさと帰ってしまう。会っている短い間も、緊張のせいか、渋面を崩しもしないので、怒っているようだった。
態度だけ見れば、そう思われても無理はない。
「まさか。月龍はお前に、相当惚れ込んでいるぞ」
「え?」
蓮の瞳に、驚きが浮かぶ。
先程そう言ったはずなのだが、亮の冗談とでも思って、本気にしていなかったのか。
唖然とした眼差しを何故か見ていられなくて、目をそらす。
「ほら。お前達が初めて会ったという花畑。あの時に一目惚れしたのだそうだ。まぁ、心の弱いところはあるが、あれはいい男だぞ。あの通り男前だしな。見惚れたというからには、お前も満更ではないのではないか?」
「――それは」
「将来も有望だぞ。出世は約束された身だ。今はまだ分不相応かもしれんが、いずれお前の相手としても不足ない地位になろう。あれだけ惚れ込んでもいるし、お前のことを大切にしてくれるだろうしな」
何事か言いかけた蓮を遮ってまで、何故こうも1人で喋っているのか。
蓮の前では割合口が軽くなるのは自覚していたが、一方的にまくし立てるのは初めてだった。
何より、話していなければ落ち着かない心境こそが解せない。
「私をあの方に娶わせると? でも――」
亮を見上げる瞳が揺れている。
ゆっくりと紡がれた声が微かに震えて聞こえたのは、気のせいだろうか。
「でも、私は亮さまに嫁ぐのではなかったのですか」
「もちろんだ。お前がそうしたいのなら、おれに異論はない」
卑怯な言い方だ。自覚があるのに改めない分だけ、性質が悪い。
「だが、お前の相手としておれが最適かと訊かれれば、自信はない。おれの立場は――ほら、色々とあるからな。ならば、お前を慈しんでくれるであろう月龍に任せるのも、悪くはないと思った」
そう、悪くはないと思った。
けれど、積極的に結び付けようと思ったわけでもない。月龍を煽ってみたり、落ち込ませるような真似をしたり――亮の言動は支離滅裂だった。
「決めるのはお前だ。お前が、最も幸せになれる道を選べ。誰よりも大切なお前のためにおれができるのは、お前の決定を見守ることだ」
心の底から、蓮の幸せを願っている。事実ではあっても、伝える必要はなかったはずだ。
この言葉は、蓮を追い詰める。
――亮が被った、偽善者の面が。
「誰よりも、大切な――」
蓮が、口の中で咀嚼するようにゆっくりと呟く。何処か熱っぽさを含んだ瞳が、亮を見上げていた。
「嬉しい」
すん、と鼻をすする音と同時、蓮が腕の中に飛び込んでくる。反射的に抱きとめた。
男にしては細い亮の腰に、蓮の腕が回る。
「亮さまが私のこと、それほどまで気にかけて下さっていたなんて。蓮は、果報者です」
薄い胸板に頬を埋めた蓮が発したのは、涙声だった。
亮は蓮の背に腕を回して、柔らかく抱きしめる。
抱擁は珍しくない。兄妹のように仲よく育った二人には、日常的な触れ合いだった。
なのに何故か、息詰まるような苦しさを感じる。
何故、これほどまでに胸が騒ぐのだろう。
蓮の髪から発せられる花の香りに、亮は深く瞼を閉じた。