第149話 憎悪
文字数 1,483文字
蓮の妊娠を知ってからも、薬は絶やさなかった。
もっとも頻度はかなり減り、二、三日に一度といった程度だった。それも夢に逃れようとして飲むのではない。効力が切れると訳もなく苛立ち、暴力的な衝動に駆られてしまうからだ。
中毒になっているのだろう。禁断症状を抑えるために、次の薬に手を伸ばすしかなかった。
ただし、ずっと続いていた悪夢にうなされることもない。幸せな夢と、わずかずつ柔らかくなった蓮の面持ちに、宙に浮いたような心地よさと共に眠りに落ちる。
「おかえりなさい」
自失の態で帰った月龍を、蓮が出迎えてくれる。小さくほころんだ口元に、頬が強張るのを感じた。
この笑みは、本当に月龍へと向けられたものだろうか。蒼龍の面影を重ね見ているからではないのか。
思うほどに、悔しさがこみ上げてくる。
「何故平伏しない」
苛立ちに任せて吐き出した言葉が、蓮の目に驚きを浮かべさせる。
無理もない。妊娠してからは、冷たい床に座って体に障ってはいけないと、月龍が禁じた。なのに何故、と思うのは、当然である。
きょとんと見上げてくる瞳に、以前の無邪気な光が見えた。
――だがこれは、月龍に向けられたものではない。
「まだ正式ではないが、ごく近いうちにおれはお前の夫となる。夫君を迎えるときには平伏してと、古来、決まっているはずだが」
蓮が自己崩壊を始めた頃、一語一句違わぬ言葉を吐いた。
怪訝に思わないはずもないのに、蓮は素直に膝を折る。不機嫌な月龍には逆らわぬ方がいいと学んだのか。
床に伏せる蓮に、あたかも君主のように鷹揚に頷いて見せた。内心の狼狽を、気づかせたくなかったからだ。
蓮は何故、これほどまでに従順なのだろう。浮かんだのは、不快を伴う疑問だった。
外戚筋の公主である蓮は、趙靖や王、亮以外の人間に対し平伏などする必要はない。
仮に月龍が正式に夫となっても同じだ。その足元にひれ伏さなければならないのは、月龍の方なのに。
目頭の熱を堪えて、踵を返す。あの薬を飲めば、気分が落ち着くかもしれない。
少し前までは、確実に月龍の精神を破壊していた薬だが、ここ最近は本来の、安定剤の役割を果たしてくれている。今夜もきっとそうなるはずだと、言い聞かせていた。
粉末を口に含み、胃の中に流し込む。すぐにいつもの感覚が訪れた。
けれど、伴うはずの安らぎが浮いてこない。その代わりなのだろうか。波間で漂うような快感の奥深くから、なにかどろどろとしたものが流れ込んでくる。
どす黒く、薄汚い汚泥のような、吐き気すらもよおす醜い感情が。
その正体が、見えた気がする。渦巻く怒りの感情が呼び起こした、眠れる狂気――憎悪。
これに飲まれてはいけない。深奥部から、自分の声が聞こえた。
だが月龍は、警告をあっさりと無視する。いきり立つ悲しみが、自制よりも感情を優先させた。
居間では、蓮が待っていた。榻に座った姿が、斜め後方から見える。母となる喜びを、全身で表しているかの様子だった。
そこにあるのは控えめな、それでいて存在感を主張する歓喜。
――他の男にもたらされたそれを、平気でおれに見せつけるのか。
心臓が、ぎりぎりと締めつけられるような痛みを訴えてくる。
かたんと、何気なく手をかけた半開きの扉が、小さく音を立てた。蓮も、何気ない動作で振り返る。
しかし月龍の姿を見ると、はっと息を飲んで立ち上がった。
「――あっ……」
蓮の顔が、恐怖に歪んでいる。悪鬼でも見つけた表情だった。
否、蓮にとっての月龍は、悪鬼そのものかもしれない。
月龍が足を踏み出すと、その分、押されるように蓮の足も下がった。