第209話 棗
文字数 1,969文字
朝はいつも通りだったように思う。けれど、寒梅が庭の手入れを終えて母屋に入ってくると、公主が厨に立っていた。
月龍から言いつけられていたのだ。厨には刃物がある、近づけさせないでほしいと。
油断していた。ずっと大人しくしてくれていたから大丈夫だと。
どうして今更、と疑問に思うよりも早く、足が動く。
「――公主様!」
慌てて駆け寄り、公主の前で膝を折る。
「なにかご入用でしたら、お申しつけくださいませ。御自らなされなくとも――」
「いいの」
言い募る寒梅を遮るのは、凛とした意思の見える声だった。
「お菓子を作ろうと思って」
「お菓子、ですか? でしたら私が――」
「作れるの?」
問われれば、口を噤むしかない。食事を作るのは必要に迫られて覚えた。けれど菓子などという贅沢品は口にしたこともない。作れるはずがなかった。
「――ごめんなさい」
できもしないことを、さもできるように口走った生意気さを叱られる前に、謝ろうと思った。
だがそれよりも先に、嘆息まじりの謝罪が公主の口から洩れる。
「意地悪な言い方をしてしまいました。悪気はなかったの。ごめんなさい」
「いえ、あの」
「お菓子も、食べたいというよりも作りたいの。好きにさせてもらえないかしら」
「けれど」
「なにか心配なら、近くで見てくれていていいから」
穏やかな口調のままそう言われては、断ることもできない。渋々ながら了承すると、ありがとうと声をかけられた。
ほとんど口をきかないから、これほど長く会話めいたことをしたのは初めてだった。いつもの短い単語だけではわからなかったけれど、意外と幼さの残る、綺麗な声だった。
話し方も、想像していたような高圧さは全くない。むしろ優し気ですらある。
否、命令することもできるのにそうはせず、下女である寒梅に謝ってくれるなど、事実優しいのだろう。
公主の手は、迷いなく動いている。小麦粉に水を入れて練り、作られているのは麺の生地のようなもの。
けれど、小麦粉には同量に近いくらいの砂糖が混ぜられていたから、味は全然違うはずだ。
その生地を小さく切り分けて、中になにか入れて包んでいる。干した棗、だろうか。
まるでなんでもないように使っているけれど、寒梅は干し棗すら食べたことはない。
住む世界が違うとは、こういうものなのだろう。
当然すぎる話だから、妬む気にもならない。ただ惨めなような、虚しいような気分がわずかにするだけだ。
じっと見る寒梅の視線に気づいたのか、公主がふっと振り返る。そして、ゆっくりとした歩調ながら急に歩み寄ってきた。
「――はい」
言って手を差し出され、反射的に寒梅も手を出す。その手に、小皿が渡された。
見ると、干し棗が三つ並んでいる。
くれるというのだろうか。嬉しさよりも心配が先に立つ。物欲しげな顔でもしていたのかもしれない。卑しいと思われたら、解雇されるのではないか。
「あの……っ」
「ただ立っているだけなんて、つまらないでしょう?」
表情は変わらない。それでも小さく傾げられた公主の顔が、いつもよりずっと優しく見えた。
――否、もしかしたら厳しい人と思いこんでいたのは、その立場の人間だからという先入観のせいだったのだろうか。
「本当は座って休んでもらっていてもいいのだけど」
できないのでしょう? とは続けられなくてもわかる問いだった。
月龍から、公主を見守るように申し付けられていることを知っているのだろう。だから無理に引き離そうとはしない。おそらくは、寒梅が月龍に叱られるのを避けるために。
「まだもう少し時間がかかりそうだから、食べながら待っていて」
嬉しい。けれど、本当にいいのだろうか。
干し棗を手に持ったまま固まってしまった寒梅を見ていた公主が、あ、と声を上げる。
「もしかして、嫌いだった?」
「いえ、あの、嫌いもなにも……食べたことがなくて」
「そう? でしたら食べてみて。お口に合うといいのだけれど」
こうまで言われたら、断りきれない。そう自分に弁明しながら、ひとくち、齧ってみる。
甘い。
甘味と言えば栗や柿くらいしか食べたことがないから、これほどの甘さは初めて体験した。
美味しい。思わずほころんだ顔を見られたのか、くすりと小さな笑い声が聞こえた。
顔を上げると、ほんのりと持ち上げられた公主の口元が見える。
「では、もう少し待っていてね」
表情だけではない。口調も少しくだけ、柔らかくなった気がした。
公主は戻り、棗を包んだ生地の形を整えて、焼き始める。
香りだけでも甘いのがわかった。うっとりするようないい香りである。味も美味しいのだろう。寒梅が口にすることは、きっとないだろうけど。
「できたわ。卓に持って行ってくださる?」
渡された皿には、美味しそうな焼き色がついた菓子が積まれていた。ずっしりと重量を感じるほどだった。