第214話 おれだけが
文字数 3,051文字
「――まだそのようなことを言っているのか」
眉間を指先でつまんで、心の底から疲れた声を出す。「まだそのようなことを」と言っているところを見ると、寒梅に話す以前から月龍にも提案していたのだろうか。
「おれにそのつもりはないと幾度も伝えているのだが、聞き入れてくれなくてな」
何処か苛立ちを含んだ声ではあった。
たしかに、蓮の思いやりが発する提案ではあっても、夫の身から考えれば嫌な話ではあるのだろう。
高官にありがちな政略のみの結婚であれば話は別かもしれないが、月龍が蓮に傾倒しきっているのは、つきあいの短い寒梅にもわかる。
やはり、寒梅を気に入って下女にした、などとは蓮の思い違いだった。
ほんのりと寂しい気はしないでもなかったけれど、自分が互いを思いやっているらしい月龍と蓮の邪魔をする存在ではなかったことに、安堵する。
「それで? 彼女の話はそれだけだったのか」
「あっ、いいえ、他にも」
自殺未遂を起こすほどに沈みこんでいた蓮。その蓮が話したのが子供に関することだけならば、月龍も心配になるだろう。子を失ったことに絶望して、再び自らを害する心配に及ぶかもしれない。
蓮がただ、過去に打ちひしがれているだけではないことを話せばきっと、月龍も安心してくれる。
「お料理を教えて頂きました。他にも、美味しいお茶の淹れ方も――そして今度は、あのお菓子の作り方も教えて下さると、約束を」
菓子の美味しさを褒め、自分だけが食べるのは少し申し訳ない、弟や妹たちにも食べさせてあげたいと言ったときだ。
では今度、あなたがお家に戻るときにも作りますね。ああそれとも、一緒に作ってお土産にしてくださいませ。
そう言って、微笑んでくれた顔を思い出す。
記憶の中の、蓮が見せた笑顔につられて寒梅の口元も緩んだ。
「仲良くしてくれると嬉しいって、笑いかけてくださって」
月龍の眉間から、しわが消える。はっと上げられた目は、大きく瞠られていた。
「笑いかけた? 蓮が? お前に――?」
矢継ぎ早に発されたのは、疑問形ではあったが問いかけではなかった。
ただ愕然と呟かれた、独り言にも見える。
口調が微妙に変わっていることに、すぐには気づかなかった。ずっと「公主」と呼んでいた蓮を、名前で呼んでいることにも。
月龍が発した驚きの声を、安堵や喜びからくると勘違いしてしまったからかもしれない。
寒梅は、大きく頷いた。
「はい。本当にお可愛くて優しくて、素敵な方ですね!」
好きな人を褒められれば、嬉しいはずだ。そうだろう、彼女はとても素晴らしくて――そう嬉しげに語る月龍を想像していた。
蓮に元気になってもらいたい、そう話していた月龍ならば、当然そう反応するだろうと。
「――何故だ」
聞こえたのは、ギリッと歯を噛みしめる音。
えっ、と顔を上げてみたものに、ぞっとする。
頬の上からでもわかる、食いしばった奥歯。口元を歪ませるのは、怒り、それとも憎悪だろうか。
見開かれた月龍の瞳から、光が消えていた。
虚ろな漆黒は、まるで深い水底のように見る者を引きずり込もうとする。
絶望と恐怖の縁に。
「どうやって蓮に取り入った?」
低い、地の底から這ってくるかの如き声だった。
がたんと、音を立てて月龍が立ち上がる。つられて寒梅も立った。
その足が、恐怖で竦む。
けれど本能が、月龍から逃げろと叫んでいた。
前進する月龍が押す見えない壁に圧迫されて、寒梅の足は後退する。
「蓮が優しい? 知っている。そのようなことはとっくに知っているんだ。蓮は優しい――そうだ、おれ以外には」
寒梅に話しているというよりは、自分自身に問いかけている風ではあった。
けれど虚ろな瞳はまっすぐ寒梅を映していて、前進の足も止まらない。
「笑いかけただと? おれはもう、名も呼んでもらえないのに。何故だ。何故おれに与えられないものを、お前が易々と手に入れる?」
追われ、後退する脚が壁に当たった。
追いつめられた、逃げ場がなくなった――恐怖が焦燥を呼び、咄嗟に身を翻す。
走り出そうとしたけれど、もう遅かった。向かいかけた方向に、月龍が腕を伸ばす。
どん、と激しい音がした。手をついた壁が壊れるのではないかと思うほどの強さだった。
見上げると、すぐ近い所に月龍の顔がある。月龍と壁に挟まれ、完全に逃げ道を失っていた。
「どうやって、蓮を誑かした」
「誑かしたなどと――」
「作った菓子を褒めた? それはおれもやった。嫌いだったのに、喜んで食べて見せた。そうだ、嫌いなものも苦手なものも、蓮のためなら克服できた」
すでに寒梅に向けられたものか、月龍自身の自問自答なのかもわからない。
ただ、ぶつぶつと低い声で続ける。
「蓮の世話をした? おれだってやった。自分の身を省みず、献身的に看病を続けた。蓮も、おれの手を受け入れてくれた。――けれど笑いかけてなどくれなかった」
おれには、なんの褒美も与えられない。
吠えるような嘆きが続く。
「おれが憎いか。――ああ、憎いだろうな。殺したのだから」
狂気に染まった顔で、引きつけを起こしたような笑みを浮かべる。
「おれがマオミィを殺したから――子供を殺したから。蓮も、殺しかけた」
マオミィとやらがなにかはわからない。
だが今、月龍は子供を殺したとは言わなかったか。蓮のことも殺しかけたと。
蓮はたしかに言っていた。「あなたには優しいのね」と。
あのときは、寒梅以上に優しくされているはずなのになにを言っているのだろうと思っていた。
けれど二人でいるときには違ったのだろうか。高圧的な態度で、殺しかけるほどの暴力まで振るわれていたのか。
月龍の手が伸びてくる。悲鳴を上げる時間も与えられなかった。喉元に衝撃を受けたときにはもう、寒梅の足は宙に浮いていた。
喉を締め上げられる痛みと、呼吸の苦しさと。
手を離させようと両手で掴んでみても、月龍は微動だにしない。あがき、もがき、両足をばたつかせても放してくれることはなく、ただ暴れた衝撃でより苦しくなるだけだった。
「そうだ。わかっている。おれは嫌われて、憎まれて――報われなくて当然だ」
わかっている。もう一度そう呟くと同時、月龍がさらに力を手に込める。
痛い、苦しい。頭の中も視界も白く染まり、意識が遠のいていく。
このまま死ぬのか――殺されるのか。
薄く開く目の前に、いつもは見上げている月龍の顔があった。
「――おれだけが、報われない」
端正な顔は、憎悪、悲哀、妬み――それら負の感情に歪んでいる。
そうか。寒梅は悟った。月龍の怒りの正体を、そしてずっと、寒梅の前で穏やかだった理由を。
寒梅は対応を間違えた。触れてはいけないものに触れてしまったのだ。
月龍の腕を掴んだ手から、力が抜ける。暴れる力も失って、手も足も、力なくだらりと下がった。
瞬間、別の衝撃に見舞われた。
腰が痛い。反射的に床についた手はやはり力が入らず、そのまま横倒しになる。
げほげほと咳き込み、同時に空気が肺に入ってきた。
解放された――助かった……?
「すまない」
頭上から降ってくるのは、月龍の声。
力が入らないながらも床に肘をつき、懸命に顔を上げる。
「このようなことをするつもりはなかった」
すまない。震える声が続く。
月龍の顔を見ることはできなかった。酸欠のため、視界がはっきりしないだけではない。
月龍が踵を返し、逃げるように立ち去ったからだ。
その後ろ姿が扉の向こうに消えるよりも早く、辛うじて保たれていた意識を失った。