第215話 残る痕
文字数 2,237文字
その日、月龍は部屋に戻ってこなかった。
以前は寝所を分けていたけれど、今は共に使っている。月龍が言うには、夫婦で別の寝所を使っていては下女に怪しまれるから、なのだそうだ。
とはいえ、臥牀は別にしている。蓮は今まで通りの臥牀を使い、月龍は部屋の隅、壁際の牀に寝ていた。
敷布団も使わず、体の上に毛布を掛けただけで、だ。
その毛布を、朝、蓮の臥牀の上に置いておけば、たとえ見られたとしても別々に眠っているとは思わないだろうから。月龍にそう説明された。
そのような工作をせずとも、同衾すればいい。蓮は幾度もそう提案した。
そもそも体の大きな月龍に、牀は狭すぎる。しかも武官なのだ。体を使った仕事をしているのに、小さな、硬いところで眠って疲れが取れるわけがない。
臥牀は広いのだから、端と端で寝れば体が触れる心配もないのでは、とも言ってみたが、月龍は頑なに首を縦に振らなかった。
下女の目を気にするから、寝所は分けられない、別の臥牀を運びこむこともできない。共に眠ることも不可。ならば体の大きさを鑑み、蓮の方が牀に寝るべきではと主張するも、それは却下された。
「公主にそのような真似はさせられません」
深く首を垂れ、ただの従者のように振る舞う月龍を見ていられなくて、それ以上はもうなにも言えなくなった。
以降、月龍は蓮が眠った後に部屋へと戻ってくる。明かりを灯し、起きているといつまで経っても戻ってこないから、やはり蓮が眠るのを待っているのだろう。
それほど同じ時を過ごしたくないのか。蓮と話すのが、苦痛なのか。
なのに、寒梅も一緒に居る夕食時はよく喋る。丁寧な調子は崩さないながらも、和やかな口調で蓮にも話しかけてくる。
人の口に戸は立てられない。下女という近しい立場の人間が、二人の仲は破綻していると周囲に漏らせば、瞬く間に広がってしまうだろう。だから彼女がいるときには夫婦として振る舞うことを許してほしい――月龍はそうとも言っていた。
今にして思えばきっと、あれは詭弁だったのだろう。「優しい夫」と「冷たい妻」、その図を見せることで、寒梅の同情を引こうとしていたに違いない。
それで、今日だ。
蓮が妾のことを寒梅に話した。寒梅からその話を聞いた月龍は早速、彼女と閨を共にしたのだろう。
自分だけの体温を臥牀の中で感じながら、きり、と痛んだ胸を押さえる。
少し早まってしまっただろうか。僅かばかりの後悔に襲われる。
今日じっくりと話してみて、わかった。寒梅は考えていた以上に素直だった。裏表のない、いい子だった。
そして、敏い。
経済的な理由からだけではなく、平民の女が満足な教育を受けられるはずがない。それでも寒梅は、理をもって考えることができる。学はなくとも、智はあった。
であればきっと、公主の立場にある蓮を蔑ろにする危険は冒さない。まして蓮と親密になれば、情の面からも裏切る真似はしないだろう。仲良くしておく方が得策だった。
――否、そのような打算的な考えからだけではない。寒梅と話しているのは、純粋に楽しかった。
誰かと笑いながら話すなど、どれくらいぶりだっただろうか。
だからこそ思う。月龍もきっと、暗い顔で皮肉を口にする蓮より、寒梅と共に過ごすことを好むだろう。今以上に蓮を疎ましく思い、すぐに母屋になど寄りつかなくなる。
早く、月龍と寒梅の間に子供が生まれたらいい。蓮の養子にすると、寒梅は約束してくれた。そうしたらきっと、寂しさにも耐えられる。
けれど、仲睦まじい二人の様子を見るのも、辛い。
月龍とずっと一緒に居るためには、そのようなことも言っていられないのはわかっている。わかっているから、懸命に悋気を飲みこんだ。
結局、一睡もできないまま起き出す羽目になった。睡眠不足が頭痛を呼び、重くてだるい体を抱えて居間に向かう。
談笑しながら卓を囲む二人を想像していたのだが、誰もいなかった。いつもであればとっくに起き出している時間のはずだけれど。
それとも二人はまだ、昨夜の余韻にでも浸っているのだろうか。
寄り添い合う姿を想像し、胸がぎゅっと詰まるより少しだけ早かった。ばたばたと慌ただしく駆けてくる音が聞こえる。
二人が揃ってゆったりと歩いてくるのではなかったことに、わずかばかりの安堵を覚えた。
どうせ結果は変わらないけれど。
「遅れて申し訳ございません! すぐに、朝食の準備に取りかかります」
蓮の前で膝を屈し、叩頭した。
ふと違和感を覚える。
確かに今までならば、こう対応してもおかしくはなかっただろう。だが昨日、寒梅とは随分打ち解けることができたと思っていたのに。
「大丈夫です。だからどうか、顔を上げて?」
ほんのり寂しく思いながらも、改めて優しげな調子を意識して声をかける。
もしかしたら月龍になにか言われたのかもしれない。仲良くなりすぎてはいけないとか、蓮が月龍にした冷酷な物言いを伝えて、冷たい人間だから気を許してはいけないなどと忠告をされれば、警戒されても仕方ない気はした。
それでも、声に応じて顔を上げてくれる。
目の縁が赤い。顔色も悪いように見えた。
月龍がまた、無体をしたのだろうか。初めて体を重ねたときの恐怖を思い出す。
あのときのように無理矢理押さえつけることはなかっただろうが、痛みはあったかもしれない。ならば今、寒梅の体は相当辛いはずだ。
今日はもういいから、休んでいて。そう声をかけようとして気づく。
――寒梅の喉元に残る痕に。