第121話 足音
文字数 1,135文字
自己防衛本能から暗示にかかりやすくなっているのだろうか。一度「月龍」と呼んでからは本当にそう思いこんでいる様子だった。
深くなった口づけにも、抱き上げて横たわらせた臥牀の上でもおとなしかった。帯を解き、直接肌に触れてもなんの抵抗もない。ただ、静かな吐息だけが洩れる。
紅唇が開き、「月龍」の名が呼ばれた。繰り返しそう呼ぶことで、さらに暗示が深くなっているのか。
違う、おれは月龍ではない。
幾度も口にしかけて、その都度衝動を飲みこむ。感情に任せて叫べば、正気に戻った蓮はすぐにも腕の中から逃げていくだろう。
蓮の身体に目を落とす。そこには予想通り、いくつもの痣があった。
月龍の暴力は顔だけでなく、全身に及んでいるのだろう。変色した肌が、痛々しい。
これでもまだ、月龍がいいのか。なにがそこまで特別にさせるのか、皆目見当がつかない。顔も流れる血も同じなのに、差は何処にあるのか。
否、差などない。あるとしても、蒼龍の方が優れている。
所詮、男と女のことだ。一度線を越えてしまえば、どうとでもなる。
それも比べる対象が非道な男であれば、話はもっと簡単になるはずだ。
だからより、優しく触れた。痛みを与えないように極力痣をよけ、胸元に唇と舌を這わせる。んっ、と小さな声が、蓮の口から洩れ出た。
気をつけてはいたが、痛かったのだろうか。わずかに身を離し、蓮の顔を見る。
閉じていた瞼を開いた蓮が、柔らかな笑みを刻んだ。
琥珀の瞳は、蒼龍の顔を映している。けれど彼女はそこに、月龍を見ていた。蒼龍だと認識もしていない。
するりと、腕が首に絡みついてくる。やんわりと弱い力に引き寄せられるまま、頬と頬を接した。
「大好き」
吐息に乗った甘い囁き。もう名を口にせずともわかる、月龍に向けられたものだ。決して、蒼龍に与えられたものではない。
月龍はこれに、なんと応えるのだろう。蓮と同じく、「大好き」だと口にして、抱きしめるのだろうか。
それとも、「愛している」と口付けるのかもしれない。
好機だ。考えろ、月龍ならばどう返すのか。
正解を早く見つけて、蓮の心を掴め。
月龍の真似でなくとも構わない。蕩けるような甘さを耳に吹きこめ。
そうだ、違っていい。違いを見せつけろ。ここにいるのは月龍ではなく蒼龍なのだと、思い知らせればいい。
そうなれば蓮は、逃げ出すだろうけれど。
「――うん」
結局、答えは見つけられなかった。頷くような鼻を鳴らすような半端な声を出して、蓮の髪に顔を埋める。
肺への圧力は、どのような感情がもたらしているのか。息が苦しい。呼吸すらままならない理由は、一体何なのか。
思考の袋小路に迷い込んでいたせいだろうか。ざりっとした足音が聞こえて、初めてその気配に気づいた。
深くなった口づけにも、抱き上げて横たわらせた臥牀の上でもおとなしかった。帯を解き、直接肌に触れてもなんの抵抗もない。ただ、静かな吐息だけが洩れる。
紅唇が開き、「月龍」の名が呼ばれた。繰り返しそう呼ぶことで、さらに暗示が深くなっているのか。
違う、おれは月龍ではない。
幾度も口にしかけて、その都度衝動を飲みこむ。感情に任せて叫べば、正気に戻った蓮はすぐにも腕の中から逃げていくだろう。
蓮の身体に目を落とす。そこには予想通り、いくつもの痣があった。
月龍の暴力は顔だけでなく、全身に及んでいるのだろう。変色した肌が、痛々しい。
これでもまだ、月龍がいいのか。なにがそこまで特別にさせるのか、皆目見当がつかない。顔も流れる血も同じなのに、差は何処にあるのか。
否、差などない。あるとしても、蒼龍の方が優れている。
所詮、男と女のことだ。一度線を越えてしまえば、どうとでもなる。
それも比べる対象が非道な男であれば、話はもっと簡単になるはずだ。
だからより、優しく触れた。痛みを与えないように極力痣をよけ、胸元に唇と舌を這わせる。んっ、と小さな声が、蓮の口から洩れ出た。
気をつけてはいたが、痛かったのだろうか。わずかに身を離し、蓮の顔を見る。
閉じていた瞼を開いた蓮が、柔らかな笑みを刻んだ。
琥珀の瞳は、蒼龍の顔を映している。けれど彼女はそこに、月龍を見ていた。蒼龍だと認識もしていない。
するりと、腕が首に絡みついてくる。やんわりと弱い力に引き寄せられるまま、頬と頬を接した。
「大好き」
吐息に乗った甘い囁き。もう名を口にせずともわかる、月龍に向けられたものだ。決して、蒼龍に与えられたものではない。
月龍はこれに、なんと応えるのだろう。蓮と同じく、「大好き」だと口にして、抱きしめるのだろうか。
それとも、「愛している」と口付けるのかもしれない。
好機だ。考えろ、月龍ならばどう返すのか。
正解を早く見つけて、蓮の心を掴め。
月龍の真似でなくとも構わない。蕩けるような甘さを耳に吹きこめ。
そうだ、違っていい。違いを見せつけろ。ここにいるのは月龍ではなく蒼龍なのだと、思い知らせればいい。
そうなれば蓮は、逃げ出すだろうけれど。
「――うん」
結局、答えは見つけられなかった。頷くような鼻を鳴らすような半端な声を出して、蓮の髪に顔を埋める。
肺への圧力は、どのような感情がもたらしているのか。息が苦しい。呼吸すらままならない理由は、一体何なのか。
思考の袋小路に迷い込んでいたせいだろうか。ざりっとした足音が聞こえて、初めてその気配に気づいた。