第216話 約束

文字数 1,290文字


 口づけの痕とは違う。赤黒く、痛々しく変色した皮膚は点々と丸くつくのではなく、細長い形をしていた。

 それは、蓮自身にも覚えがあるものだった。

「――月龍がやったの……?」

 問いかけは、自分の耳にも掠れて聞こえた。名前を口走ったことにも気づかない。
 ただ驚愕と憤りに声を震わせる。

「月龍が、あなたの首を絞めたの?」

 蓮に馬乗りになり、両手で首を絞めたことがあった。あのとき蓮についていたのと同じ形の痣であれば、推測と呼ぶほどのことでもない。
 寒梅がはっと息を飲む。その目に涙がみるみる溜まった。
 それが、肯定の返事だった。蓮は胸の前で、きゅっと拳を震わせる。

「どうして――?」
「わ、私が粗相をしたのです」

 上ずった声での返答に、月龍のせいではないと庇う姿勢が見えた。
 ――まるで、以前の蓮のように。

「私が、月龍様の意に沿わぬ言動をしてしまって……」
「――求められて拒んだとか……」
「い、いいえ、違います!」

 問いかけに、被る勢いで否定する。強い否定はむしろ、肯定に見えた。

「月龍様は、一途に蓮様を想っておいでです。決して、私になどお気にかけてはおられません」

 再度平伏す姿には、恐怖の色が宿っていた。
 よほど怖い思いをしたのだろう。いたたまれなくなって、寒梅の前で膝を折る。

「ごめんなさい」

 床につかれた寒梅の手に、自分の手を重ねる。触れた瞬間にぴくりと怯えたように震えるのが、また哀れだった。

「私が余計なことを言ってしまったから? そのせいであなたがこのような目に」
「いいえ、決して、決してそのようなことはございません」
「でも寒梅さん……」

 重ねていた手を、そっと握る。ようやく上げてくれた寒梅の顔は、眉が歪んだ悲しげなものだった。

「公主様――蓮様」

 また、名を呼んでくれた。
 幾分安堵しながら、続けられるだろう寒梅の言葉を待つ。

「お心遣い、ありがとうございます。けれどどうか、私などより月龍様にお心を向けて差し上げてくださいませ」

 請われた願いは、不思議なものだった。
 寒梅の物言いを聞いていると、月龍よりも蓮の方が立場が上だと思っているようだった。たしかに、通常の公主と武官であればそうだろう。

 ならば、自分を害した月龍を咎めてくれ、とでも願えばいいものを。

 身分で言えば、蓮の方が上だ。けれど実際の立場は、表向きはどうあれ月龍の方が上なのである。
 それを思えば、蓮とて月龍に意見するのは怖い。
 怖いけれど、二人を仲裁するためならば口添えはするつもりだった。

 寒梅は未だ、月龍が蓮を想っていると思い違いをしている。その上でとはいえ、自分を害した相手を思いやって欲しいと願うとは。

「――寒梅さんは優しいのね」

 ふと、笑みと共に呟きが洩れる。
 皮肉などではない。心の底からの本音だった。
 月龍の演技に騙されているのかと思うと、心が痛い。かつて、月龍を信じ切っていた頃の自分を思い出す。

「わかりました。心がけてみます」

 少なくとも、寒梅の前では。

 そうすることで、寒梅が安堵できるなら――彼女に危険が及ばないようになるのなら。
 約束に、「ありがとうございます」と寒梅はまた、平伏した。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

月龍《ユエルン》

古代中国、夏王朝の武官。

武に関しては並ぶ者なきと評される腕前。

無愛想で人の機微に疎い。

有力な宦官の孫として養子に入る。出生に秘密あり。

蓮《レン》

王の姪。王子の従妹。

穏やかだけれど型破りなところのある、小柄な少女。

月龍との出会いで、人生が一変する。


亮《リーアン》

夏王朝の第一王位継承者。

蓮のいとこ、月龍の親友。

亮を出産時に母が死亡し、妃を溺愛していた父王からは仇のように嫌われている。

絶世を冠するほどの美青年。頭脳明晰。

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み