第67話 失望

文字数 1,850文字


「私と一緒になれば、身分だって出世だって思いのままよ。だから捨てたりなさらないでね?」

 項垂れた様子でため息を落としたのは、一瞬だった。すぐに月龍を振り返り、笑みを刻む。
 ことさらに身分や出世のことを持ち出したのは、あてつけではないのだろう。一層のこと、その方がまだいい。月龍を傷つけてやろうと、心にもない責言を吐き捨てられた方がまだ救われる。
 けれど蓮の顔を見ている限り、本気で言っているのはまず間違いなかった。

 まさか、と思う。
 趙靖に諭され、別れを決意した。嫌われようと酷い言葉を投げつけもした。
 だが蓮は、月龍を嫌わなかった。月龍の本心を察して、戻ってくれたのだと思っていた。――許してくれたのだと。

 戻って来たとき、たしかに蓮の言っていた。別れたりしたら、亮に秋怨の念を吹きこむと。
 ふざけているのだと思ったのだ。傍にいたいと望んでくれる気持ちが嬉しくて、蓮を抱きしめた。決して、脅しに屈したわけではない。

「なに――なにを言っている、蓮」

 嘘だと思いたい。言ってほしい。「私を怖がらせたりするから、意地悪を言ってみたの」と、肩を竦めて笑ってほしい。
 そうしたら、そのような酷いことはしないでくれと、月龍も笑って言える。これからもっと大切にするから許してと抱きしめられる。

 笑いかけようとするのに、顔の筋肉が強張って思い通りにならない。辛うじて口の端をほんのわずか持ち上げただけで、到底笑顔と呼べるものではなかった。

 払われた手で、もう一度蓮の両肩を掴む。双眸を見つめようとするのに、目の焦点が合わず左右に激しく揺れるのを感じていた。
 不思議そうに月龍を見上げていた蓮が、ふっと笑う。

「わかっています。身分だけではいけないのでしょう? 亮さまにもっと似るよう、努力します」

 何故ここに、亮の名など出てくるのか。
 問うまでもなく、答えはわかる。蓮は、月龍が彼女の体に亮を重ねていると思いこんでいるのだ。
 だからかと、したくもないのに納得する。だから蓮は、亮と同じ香油を使い始めた。より亮に似せるため――「蓮の匂い」を消すために。
 それを月龍が望んでいると、勝手に誤解して。

「それだけ――おれが、それだけで君の傍に居ると……?」

 幾度、蓮に愛していると言っただろう。
 どれだけの想いをこめて、蓮を抱いていたと思っているのか。

 想いをすべて否定されているわけではないだろう。違うと思いたかった。政治利用のために近づき、亮の身代わりにするような卑劣な男に、蓮が惚れるわけがない。
 何処かで、月龍の想いを信じてくれているはずだと。

「もちろん、それだけではないと思っています。私のこと、気に入って下さっているのでしょう?」

 気に入る、とはなんだろう。それではまるで月龍が、道具を選ぶに等しく蓮に手を出したようではないか。
 するりと、蓮の腕が伸びてくる。頬に触れてきたのは、冷たい指先。唇をなぞるのはまるで、月龍を誘惑する仕草だった。
 蓮が目を細めて、艶っぽく笑う。

「そのために、学んできたのですもの。これからももっとお役に立てるように――もっと悦んで頂けるように、頑張ります」

 月龍が刻んだ、引きつった笑顔とは比べ物にならなかった。蓮は美しく嫣然と微笑んで――涙を一筋、頬に落とす。
 ――思い出さずには、いられなかった。あの日蓮にぶつけた中でも、もっとも酷い暴言を。
 口の中から、急速に水分が失われていく。喉の奥がひりつくほど、からからに乾いていた。ごくんと喉仏を上下させたが、飲みこめたのは少量の空気だけだった。

「まさか――他の男に、抱かれたのか」

 あのとき、月龍は言った。おれに抱いてほしければ、他の男で学んで来いと。
 その蓮が、戻って来たのだ。条件を満たしたからだと、何故疑わなかったのか。
 そうして今、「学んできた」と蓮は言った。

 痛みさえ訴える乾ききった喉で問いを振り絞ったあと、後悔する。訊いてどうするというのか。首肯されればただ、失望の念が強くなるだけなのに。
 細い肩を握りしめ、月龍は祈りをこめて見つめる。嘘でもいいから否定してほしい――たとえそれが、意味のないことだったとしても。

 月龍の目を見つめ返し、蓮が不思議そうな顔になる。
 なにを今更、そう罵ってくれる方がまだ良かった。なのに蓮は、今度こそ先程の作り物とは違う、本当の笑みを刻む。

「――はい!」

 褒めてもらえるとでも思っているのだろうか。努力が認められたとでも。
 嬉し気な微笑みの前で、月龍が感じた絶望は筆舌に尽くしがたかった。
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登場人物紹介

月龍《ユエルン》

古代中国、夏王朝の武官。

武に関しては並ぶ者なきと評される腕前。

無愛想で人の機微に疎い。

有力な宦官の孫として養子に入る。出生に秘密あり。

蓮《レン》

王の姪。王子の従妹。

穏やかだけれど型破りなところのある、小柄な少女。

月龍との出会いで、人生が一変する。


亮《リーアン》

夏王朝の第一王位継承者。

蓮のいとこ、月龍の親友。

亮を出産時に母が死亡し、妃を溺愛していた父王からは仇のように嫌われている。

絶世を冠するほどの美青年。頭脳明晰。

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