第42話 縁談
文字数 2,969文字
亮の元へと向かう足は、いつにも増して忙しないものだった。
本当は、まっすぐ蓮のところに帰りたかった。早く会いたいというだけではない。蒼龍の存在が、どうしても月龍の心に不安を植え付ける。
かと言って、会わなければいいという話ではない。月龍が休みの日だけとなれば、会う日は限られる。それに耐えられる自信はなかった。
ただその顔を見て、笑いかけてほしい。名を呼んでくれる声を、一日たりとも欠かすことはできなかった。
依存している。
自覚はあっても、正すつもりもないのが重傷だった。
とはいえ、亮からの呼び出しを無視するわけにもいかない。要件を手短に済ませ、早く帰りたいところだ。
「よぉ、月龍」
例の懐剣を提示し、入った部屋の中では亮が、いつものようにくつろいだ姿で寝台に転がっていた。
伸びた髪を結いもせず、着物の前もだらしなくはだけている。このような格好をしていてもなお、見惚れるほどの美貌に陰りすら見えない。
「どうした、急に」
寝そべって頬杖をついた姿勢は、とても緊急の用とは思えない。非常事態ではないことにまずは安堵し、月龍も壁際の
「実はな、今、お前と蓮の縁談を正式に進めている」
世間話と同じ調子で発せられたのは、衝撃的な言葉だった。
月龍と蓮の仲は、秘しているものではない。蓮の身分、月龍の立場を考えれば、一度噂として洩れれば広がるのは早かった。
月龍に関しては、元の悪評もある。「蓮公主は騙されているのではないか」「下賤な成り上がり者が身分を求めて近づいた」だのと、口さがない者たちには言われていた。
蓮の名に傷をつけた以上、すでに引き下がることなどできない状況ではあった。いずれは、と考えてはいたけれど、予測よりもずっと早い展開に目を見開く。
「なんだ。喜ぶかと思ったのに」
無反応とは面白くない。
片眉を上げた呆れの表情に、我に返る。
「否、無論嬉しくは思うが――急だな」
「薛家の放蕩息子の件もある。急ぐに越したことはない。だがな、問題は――
出てきたのは蓮の兄、
当然ではある。たとえば月龍が彼の立場だったとして、月龍のような男に妹を嫁がせる気にはなれない。
身分や地位だけではなく、女性関係でも問題があったことは知っているはずだ。今更ながら、過去に犯した己の愚行が悔やまれる。
「表立った反対はされていない」
いとことはいえ、殿下と呼ばれる立場の亮に反対の意を唱えるのは、容易ではないだろう。
その上で「問題だ」と亮は言う。
「――だが、難色は示された」
「そういうことだ」
苦虫を噛み潰した気分の月龍に対し、何故か亮は、何処か満足気ですらあった。
「亮殿下のご推挙とあらば、喜んで応じたいところではありますが、なにせ邵殿の
こほんと軽く咳払いの後に発せられたのは、おそらく靖の口真似なのだろう。日頃の軽口とはまったく違う、低い声と重苦しい調子が、月龍の脳裏に趙靖の不機嫌な顔を思い起こさせる。
「――充分、反対されていると思うが」
「阿呆。元譲殿はああ見えて意外と豪胆だ。おれが相手であっても、認める気がまったくなければ、お断りいたします、と断言する」
ああ見えても、と亮は言うが、月龍の目に靖は豪胆以外の何者にも見えない。
一見優男にも見える細面の美丈夫だが、眼光の鋭さがすべてを物語っていた。
「条件さえ満たせば認める、という話だ。その条件は、お前にとってはそう難しくはない」
「
「ほう」
月龍の予測に、亮は驚いたように目を開く。
「お前にしては察しがいい。その通りだ」
相変わらずの見下した調子ではあるが、感心しているのは事実だろう。
もっとも、褒められたからと言って手放しで喜べる状況でもなかったけれど。
「最初からわかっていた話だろう」
「まぁな。さて、問題はここからだ。認める気がまったくなければ即答で断られる。だがそうではないと言って、お前を諸手を挙げて歓迎するわけでもない」
当然だと思うから、黙って頷く。
「元譲殿はお前の為人を知らない、と言っていた。ならばやることは一つだろう?」
「――身辺調査、か?」
「阿呆」
月龍の推測を、一言で切って捨てる。
「そのようなことはとっくにやっている。安心しろ。お前の過去の悪行はすべて、元譲殿の耳に入っていると思え」
安心できるわけがない。むっと顔を顰めると、月龍の反応など気にもかけない亮らしく、ひらひらと片手を振った。
「知らないのであれば直接その目で確かめるまで。おそらくは近いうちに、元譲殿からの呼び出しがある」
にやりと美しい唇が歪む。面白がるような、何処か意地の悪い表情だった。
「現段階で、元譲殿の意思は反対寄りの中立だ。地位がなんだとか理由をつけてはいるが、あの人がそのようなことを気にするはずがない。要はお前のことを判じかねているのだ」
亮が深読みしすぎているだけではないのか。言葉通り、地位がない故の反対だからこそ、岷山での手柄が必要なのだろう。
――否。手柄を立て、地位を得れば表向きの理由を消すことができる。そう考えれば手柄を立てたらとの条件は、靖からではなく亮が出したのかもしれない。
「他者から聞くお前の評価は、悪いもののはずだ。だがおれはこれ以上の男はないと推挙し、どうやら蓮も惚れこんでいる様子。だが悪評のつきまとうお前には嫁がせたくない。ならば実際に己の目で確かめ、あわよくばお前自身に辞退させたく思っている、といったところだろう」
至極もっともな考え方だった。わかるからこそ、黙りこむ以外できない。
同時に、険しい靖の顔が思い出されてならなかった。
「だからお前に忠告してやろうと思ってな。元譲殿はおそらく、お前にゆさぶりをかけてくる。それに屈してはならんぞ」
亮はいつも、ふざけたような薄笑いと軽い口調で、厳しいことを口にする。
今もそうだった。かすかに歪んだ柳眉に心配の影は見えるのに、口元には笑みが滲んでいる。
見下されているとは思わない。心遣いは、本当にありがたく思っている。
けれど、と、渋面を自覚しながら口を開いた。
「――正直に言えば、
「おい!」
呆れを通り越した怒りだろうか。口元に滲んでいた笑みは消え、月龍を睨む目つきに鋭さが加わる。
「お前は阿呆か。負ければ蓮を手放すことになるのだぞ」
「わかっている。わかってはいるが――おれはあの方が、どうしても怖い」
「その図体でよく言うわ」
はんと吐き捨てられ、反論もできぬことが悔しい。
無論、腕力では勝てる。けれど靖の威厳、威圧感を前にすると、委縮してしまう。
格の違い、とでもいうのか。目を合わせることすら、難しい。
「そもそもまともに口をきいたこともないだろう。いいか、何度も言うが、あの蓮の兄なのだぞ。気難しい御仁ではない」
「しかし――」
「何故そう弱気なのだ。大体お前は――」
「殿下。公主の従者殿がお見えです」
長々と続くはずの説教を遮ったのは、外からかけられた衛兵の声だった。