第197話 縁組
文字数 2,617文字
月龍の帰宅がまた遅れるようになった。
二人の間にできた子供のことを、涙ながらに訴えたことが気に障ったのだろうか。形ばかりの会話もなくなり、顔を合わせる時間すら少なくなってしまったことを思い、後悔する。
いずれ石女 として離縁を言い渡されるはずだ。下手に月龍の機嫌を損ねればその時期が早くなる。傍に居られる期間が短くなるだけならば、従順な妻の役割を演じていた方がよかったのかもしれない。
「――蓮!」
帰ってくるなり、月龍が嬉しげな声で読んできたのは、あの日から一月近く経った頃だった。珍しく早く帰って来た日のことである。
蓮が床に膝をつくよりも早く、月龍がそれよりもさらに身を低くして顔を覗きこんだ。
「ようやく君の望むものを見つけられた。今から、すぐに行こう」
「――どちらへ?」
「行けばわかる。君も喜んでくれるはずだ」
怪訝に眉をひそめる蓮とは対照的に、月龍の顔には隠しきれない嬉しさが描かれている。
いつもの作り笑顔ではない。よほど喜ばしいことでもあったのだろうか。
けれど彼の言う「蓮の望むもの」に心当たりはない。「物」などなにも望んでいないし、月龍が蓮の気持ちを把握しているとも思えなかった。
ともあれ、月龍の提案に抵抗するつもりはない。首肯する蓮を、嬉々とした様子で馬車に乗せる。
到着したのは、とある民家だった。決して裕福ではないことは、建物を見ただけでわかる。しかも中からは、騒ぐ子供たちの声も聞こえた。裕福でない家に子供が多くいるのであれば、生活が苦しいだろうことは蓮でもわかる。
「約束通り、迎えに来た」
民家に向かった月龍は、家の中に声をかける。
誰かを迎える約束をしていた、というのはわかった。
けれど、一体誰を?
疑問に、きゅっと胸が痛んだ。
ここがずっと、月龍が通っていた女性の家なのかもしれない。彼が入れこんでいたのは子供を持つ寡婦で、いずれ妻として迎え入れると約束していたのではないか。
そして今日が、その日。
「お待ちしておりました、邵様」
月龍の呼びかけに、文字通り待ちかねていたように女性が表へと出てくる。
年は三十を超えた頃だろうか。質素な服に身を包んだ、決して醜くはないけれど特別に美しいわけでもない。
女性は月龍に笑顔を向け、その表情のまま蓮を見て一礼した。
はっと息を飲む。女性の厚顔さに驚いたのではない。彼女がしっかりとその手に抱いた、赤子の姿を認めたからだ。
まだ生まれて間もないように見える。二月か三月くらいか。
月龍の子供かもしれない。思うだけで、負の感情が湧き出してくる。俯いた目に、両の拳が小さく震えているのが見えた。
「――おいで」
月龍が蓮の様子に気づくことすらなく、女性に向かって足を踏み出す。同時に広げられた腕に、女性も近づいた。
蓮の前で抱擁するつもりか。その姿を見たくなくて、視線を落としたまま、さらに横へと流す。
「ほら、見て。可愛いだろう」
言った月龍は踵を返し、腕の中にいる赤子を見せようと蓮に歩み寄ってくる。
おいで、と呼びかけたのは女性ではなく、赤子に対してだったのか。大差ないことは承知していても、わずかに胸を撫で下ろす。
そこで初めて、月龍の腕に抱かれた赤子の顔を見る余裕ができた。
たしかに可愛い子供だった。女の子だろうか。髪の色はやや薄く、栗色に近い。見えているのかどうかも怪しい目を、ぱっちりと開いている。
月龍から二、三歩離れたところにいる蓮にも、赤子特有の乳臭い甘い匂いが届いていた。
だがなによりも蓮の注意を引いたのは、月龍の表情だった。目を細め、本当に愛しそうに赤子の顔を見つめている。
他の女性との間に生まれた子供を、よくも蓮の前で可愛がれたものだ。きり、と唇を噛みしめる。
「この子を養子として譲り受ける。君に育ててほしい」
「――養子?」
この子を育てろ、と言われるのは理解できた。愛妾の子を正妻に育てさせるのは珍しい話ではない。
けれど月龍は今、養子と言った。では彼の子供ではないのだろうか。
驚いて目を上げる。女性を見て、彼女の後ろに男性が立っているのにようやく気づいた。
夫だろうか。女性しかいないと思いこんでいたせいで、認識が遅れたらしい。男性は、蓮や亮ほどではないが、髪の色がやや薄かった。
赤子は、この夫婦の子供なのかと悟る。同時に何故、月龍が容姿などと思い立ったのかは謎のままだった。
「ずっと条件に合う子供を探していた」
疑問が顔に出ていたのだろうか。月龍が、とつとつと説明を始める。
「すでに何人も子を持った夫婦の間に生まれた子供で、そして、できるだけ――ほんのわずかでも君に似た子はいないかと」
それがこの髪色ということか。
浅はかなことだと思う。髪の色彩など、成長の過程で変わるものだ。今ではわずかに茶色がかっているだけの兄、趙靖でさえ、若い頃は蓮と変わらぬほどに明るかった。
蓮とて、これからどう変わるかもわからないのに。
「――ほら、蓮、抱いてみて」
胸の中で渦巻く、言うつもりのない不満に気づく様子もなく、月龍はにこやかな笑顔のまま赤子を蓮に渡す。
腕から伝わってくる重さと温もりは、心地よかった。もう目は見えているらしく、蓮をじっと見つめている。
初めて見る顔、初めての抱かれる感触に、赤子なりにいつもとの違いを感じているのだろうか。
しばらくの間、不思議そうな顔つきで蓮を見ていた赤子が、敵意のなさを見て取ったか笑顔のようなものを見せて、手を伸ばしてくる。
本当に、可愛い。
ふと、頬が緩む。
「相性もよさそうだし、やはり印象も似ている。こうしていると、本当の母子のようだ」
蓮の腕の中にいる赤子を覗きこみ、月龍は小さな頬をそっと指の背で撫でる。
優し気な笑顔を間近で見上げて、自分の顔が硬直したのを感じた。
「――ごめんなさい」
誰にともなく、謝罪する。強張らせた頬で月龍を睨みつけ、それからこちらの様子を見守っていた女性の方へと向き直り、歩み寄った。
そして、腕の中の赤子を彼女に返す。
「申し訳ありませんが、このお話はなかったことにしてください」
「――え?」
硬い声で発した蓮の拒絶に、女性が唖然と訊き返す。夫らしき男性も、同様の反応だった。
無論、月龍も同じである。
三者の驚きは予測でき炊いたことなので、躊躇いを覚えることはない。ほんの少しだけ、女性の腕に納まった赤子に未練を感じながらも、さっと踵を返して歩き出した。
二人の間にできた子供のことを、涙ながらに訴えたことが気に障ったのだろうか。形ばかりの会話もなくなり、顔を合わせる時間すら少なくなってしまったことを思い、後悔する。
いずれ
「――蓮!」
帰ってくるなり、月龍が嬉しげな声で読んできたのは、あの日から一月近く経った頃だった。珍しく早く帰って来た日のことである。
蓮が床に膝をつくよりも早く、月龍がそれよりもさらに身を低くして顔を覗きこんだ。
「ようやく君の望むものを見つけられた。今から、すぐに行こう」
「――どちらへ?」
「行けばわかる。君も喜んでくれるはずだ」
怪訝に眉をひそめる蓮とは対照的に、月龍の顔には隠しきれない嬉しさが描かれている。
いつもの作り笑顔ではない。よほど喜ばしいことでもあったのだろうか。
けれど彼の言う「蓮の望むもの」に心当たりはない。「物」などなにも望んでいないし、月龍が蓮の気持ちを把握しているとも思えなかった。
ともあれ、月龍の提案に抵抗するつもりはない。首肯する蓮を、嬉々とした様子で馬車に乗せる。
到着したのは、とある民家だった。決して裕福ではないことは、建物を見ただけでわかる。しかも中からは、騒ぐ子供たちの声も聞こえた。裕福でない家に子供が多くいるのであれば、生活が苦しいだろうことは蓮でもわかる。
「約束通り、迎えに来た」
民家に向かった月龍は、家の中に声をかける。
誰かを迎える約束をしていた、というのはわかった。
けれど、一体誰を?
疑問に、きゅっと胸が痛んだ。
ここがずっと、月龍が通っていた女性の家なのかもしれない。彼が入れこんでいたのは子供を持つ寡婦で、いずれ妻として迎え入れると約束していたのではないか。
そして今日が、その日。
「お待ちしておりました、邵様」
月龍の呼びかけに、文字通り待ちかねていたように女性が表へと出てくる。
年は三十を超えた頃だろうか。質素な服に身を包んだ、決して醜くはないけれど特別に美しいわけでもない。
女性は月龍に笑顔を向け、その表情のまま蓮を見て一礼した。
はっと息を飲む。女性の厚顔さに驚いたのではない。彼女がしっかりとその手に抱いた、赤子の姿を認めたからだ。
まだ生まれて間もないように見える。二月か三月くらいか。
月龍の子供かもしれない。思うだけで、負の感情が湧き出してくる。俯いた目に、両の拳が小さく震えているのが見えた。
「――おいで」
月龍が蓮の様子に気づくことすらなく、女性に向かって足を踏み出す。同時に広げられた腕に、女性も近づいた。
蓮の前で抱擁するつもりか。その姿を見たくなくて、視線を落としたまま、さらに横へと流す。
「ほら、見て。可愛いだろう」
言った月龍は踵を返し、腕の中にいる赤子を見せようと蓮に歩み寄ってくる。
おいで、と呼びかけたのは女性ではなく、赤子に対してだったのか。大差ないことは承知していても、わずかに胸を撫で下ろす。
そこで初めて、月龍の腕に抱かれた赤子の顔を見る余裕ができた。
たしかに可愛い子供だった。女の子だろうか。髪の色はやや薄く、栗色に近い。見えているのかどうかも怪しい目を、ぱっちりと開いている。
月龍から二、三歩離れたところにいる蓮にも、赤子特有の乳臭い甘い匂いが届いていた。
だがなによりも蓮の注意を引いたのは、月龍の表情だった。目を細め、本当に愛しそうに赤子の顔を見つめている。
他の女性との間に生まれた子供を、よくも蓮の前で可愛がれたものだ。きり、と唇を噛みしめる。
「この子を養子として譲り受ける。君に育ててほしい」
「――養子?」
この子を育てろ、と言われるのは理解できた。愛妾の子を正妻に育てさせるのは珍しい話ではない。
けれど月龍は今、養子と言った。では彼の子供ではないのだろうか。
驚いて目を上げる。女性を見て、彼女の後ろに男性が立っているのにようやく気づいた。
夫だろうか。女性しかいないと思いこんでいたせいで、認識が遅れたらしい。男性は、蓮や亮ほどではないが、髪の色がやや薄かった。
赤子は、この夫婦の子供なのかと悟る。同時に何故、月龍が容姿などと思い立ったのかは謎のままだった。
「ずっと条件に合う子供を探していた」
疑問が顔に出ていたのだろうか。月龍が、とつとつと説明を始める。
「すでに何人も子を持った夫婦の間に生まれた子供で、そして、できるだけ――ほんのわずかでも君に似た子はいないかと」
それがこの髪色ということか。
浅はかなことだと思う。髪の色彩など、成長の過程で変わるものだ。今ではわずかに茶色がかっているだけの兄、趙靖でさえ、若い頃は蓮と変わらぬほどに明るかった。
蓮とて、これからどう変わるかもわからないのに。
「――ほら、蓮、抱いてみて」
胸の中で渦巻く、言うつもりのない不満に気づく様子もなく、月龍はにこやかな笑顔のまま赤子を蓮に渡す。
腕から伝わってくる重さと温もりは、心地よかった。もう目は見えているらしく、蓮をじっと見つめている。
初めて見る顔、初めての抱かれる感触に、赤子なりにいつもとの違いを感じているのだろうか。
しばらくの間、不思議そうな顔つきで蓮を見ていた赤子が、敵意のなさを見て取ったか笑顔のようなものを見せて、手を伸ばしてくる。
本当に、可愛い。
ふと、頬が緩む。
「相性もよさそうだし、やはり印象も似ている。こうしていると、本当の母子のようだ」
蓮の腕の中にいる赤子を覗きこみ、月龍は小さな頬をそっと指の背で撫でる。
優し気な笑顔を間近で見上げて、自分の顔が硬直したのを感じた。
「――ごめんなさい」
誰にともなく、謝罪する。強張らせた頬で月龍を睨みつけ、それからこちらの様子を見守っていた女性の方へと向き直り、歩み寄った。
そして、腕の中の赤子を彼女に返す。
「申し訳ありませんが、このお話はなかったことにしてください」
「――え?」
硬い声で発した蓮の拒絶に、女性が唖然と訊き返す。夫らしき男性も、同様の反応だった。
無論、月龍も同じである。
三者の驚きは予測でき炊いたことなので、躊躇いを覚えることはない。ほんの少しだけ、女性の腕に納まった赤子に未練を感じながらも、さっと踵を返して歩き出した。