第168話 最良

文字数 1,044文字

「ここだ」


 蓮を見つめていた月龍の目が、笑みの形に細められる。
 殺せと言っているのか。理解すると同時、何故との疑問が浮く。

 先程、蓮が行った所業のせいか。蓮が月龍の死を望むなら叶えてやるとでも言いたいのだろうか。

 蓮を、愛しているとでも?

 まさか。そのようなはずがない。会わなければよかったと、蓮のすべてを否定したのはつい先程だというのに。
 なかったものにしたいと言われて、蓮はきっとどうにかしていたのだろう。月龍に刃を向けたのは、混乱の中に起きた、気の迷いにすぎない。

「――いや」
「亮の目を気にしているのか? だとしたら大丈夫だ」

 声が震える。声だけではない。月龍がしっかりと支えているにもかかわらず、自分の手が刃ごとがたがたと震えているのが見えた。

「君に嫌われて発狂した――否、薬のせいにしてもいいか。ともかく、君が止める間もなく自ら喉を掻き切ったと伝えてくれればいい」

 疑われることはないだろう。理路整然と語る月龍の声に、迷いはなかった。
 怖い。
 小さく頭を振る。殺したいなどと、思っていない。
 何処かで、返り討ちに合うかもしれないとは考えていたけれど、このような事態は想定していなかった。

 刃を月龍の喉元から離そうと、手を引く。だが微動だにしない。
 いつまでも刺そうとしない蓮に焦れたのか、月龍が自ら力を入れ、引き寄せる。

 切っ先が、ぷちんと皮膚を傷つけ、肌の上に赤い球が生まれた。小さな球体は段々と大きくなり、やがて破れて流れ出る。
 その様子から目を逸らしたいのに、愕然と見開いた目は少しも言うことを聞いてくれない。
 震える視界の端、上方で、満足げに微笑みながらすぅっと目を閉じる月龍の顔が、見えた。

「い、いやぁ……っ!」

 掴まれたのとは逆の手で、月龍の胸を押す。同時に右手を引いて、渾身の力で月龍の肌から刃を離そうとした。
 それは、意外なほどあっさりと成功した。蓮の力が上回ったとも思えず、月龍が抵抗を諦めたのだろう。
 奪い取った懐剣を、遠くに投げ捨てる。はぁはぁと肩で息をする蓮の頬には、溢れ出した涙が伝っていた。

「――やはり、無理か」

 肺が空になるほどの嘆息のあと、月龍が独り言めいて呟く。

「案の中では、これが最良だったのだが」

 残念そうな笑み含みの声に、ふと目を上げる。眉尻を下げた、月龍らしくない笑顔と視線が合った。

「君の、幸せのためにできること」

 月龍を真っ直ぐに見上げる。さらなる説明を求めているつもりも、責罵するつもりもない。
 ただ、涙をこらえているだけだった。
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登場人物紹介

月龍《ユエルン》

古代中国、夏王朝の武官。

武に関しては並ぶ者なきと評される腕前。

無愛想で人の機微に疎い。

有力な宦官の孫として養子に入る。出生に秘密あり。

蓮《レン》

王の姪。王子の従妹。

穏やかだけれど型破りなところのある、小柄な少女。

月龍との出会いで、人生が一変する。


亮《リーアン》

夏王朝の第一王位継承者。

蓮のいとこ、月龍の親友。

亮を出産時に母が死亡し、妃を溺愛していた父王からは仇のように嫌われている。

絶世を冠するほどの美青年。頭脳明晰。

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