序 始まり
文字数 926文字
その花の香りが、ふっと鼻孔をくすぐった。
男は不意に馬を止める。
馬上にあってさえ長身が認められる、眉目秀麗な男だった。
しかし、ゆったりとした衣の上からも見てとれる筋肉が無骨さを強調し、深い湖の底を思わせる暗い眼光が魅力を半減させている。
咲き乱れるのは名も知らぬ草花。人の手が入っていない花畑は、荒野の趣がある。
遠乗りの帰り、見慣れたいつもの風景だった。
足を止めたのは、美しさに見惚れたからではない。無骨な男に、花を愛でる趣味などあろうはずもなかった。
頭をよぎったのは、病床にある義父のことだ。もう随分と顔も見せていない。さすがにそろそろ訪ねて行かねばならない頃合だった。
花を贈る習慣のある邑 ではない。
けれど、いつも花を飾っている親友の部屋を思い出し、見舞いに持って行くのも悪くないと思い立ったのだ。
義父を慕っているわけではなく、むしろ軽蔑さえしていた。だが育ててくれた恩はあり、礼儀は立てなければならない。
それ以上の感情はなかった。
馬から下りて、花畑に足を踏み入れる。見栄えのする花を無造作に手折り――動きを止めた。
男の足で二十歩程だろうか。不意に、背後からの気配に気付いたのだ。
反射的に腰の刀に手を伸ばす。立場を自覚すれば、暗殺を危惧するのは当然だった。
振り向き様に斬って捨てなかったのは、違和感を覚えたせいだ。まるで殺気が感じられない。足音すら聞こえる。標的を前にした刺客にしては、不用意すぎた。
怪訝に眉をひそめ、警戒を解かぬままに振り返る。
立っていたのは、小柄な少女だった。
はんなりと刻まれた微笑みに、男は絶句する。
透き通るような白い肌と、わずかに色付いた頬。白桃色の唇は肉感を帯び、睫毛は頬にまで影を落としている。
大きな瞳は琥珀色、柔らかそうな髪は茶色がかっていて、この邑には珍しい色彩だった。
しかし、男の目に少女が鮮やかだったのは、色彩のせいばかりではない。彼女が浮かべた微笑に、辺りの花々さえ霞ませるほどの威力を感じた。
面立ちのあどけなさが示す幼さも気にならなかった。その美貌と、柔らかな空気が男を惹きつける。
――自分は彼女と出会うために生まれてきたのだ。
それは、確信すらはらんだ予感だった。
男は不意に馬を止める。
馬上にあってさえ長身が認められる、眉目秀麗な男だった。
しかし、ゆったりとした衣の上からも見てとれる筋肉が無骨さを強調し、深い湖の底を思わせる暗い眼光が魅力を半減させている。
咲き乱れるのは名も知らぬ草花。人の手が入っていない花畑は、荒野の趣がある。
遠乗りの帰り、見慣れたいつもの風景だった。
足を止めたのは、美しさに見惚れたからではない。無骨な男に、花を愛でる趣味などあろうはずもなかった。
頭をよぎったのは、病床にある義父のことだ。もう随分と顔も見せていない。さすがにそろそろ訪ねて行かねばならない頃合だった。
花を贈る習慣のある
けれど、いつも花を飾っている親友の部屋を思い出し、見舞いに持って行くのも悪くないと思い立ったのだ。
義父を慕っているわけではなく、むしろ軽蔑さえしていた。だが育ててくれた恩はあり、礼儀は立てなければならない。
それ以上の感情はなかった。
馬から下りて、花畑に足を踏み入れる。見栄えのする花を無造作に手折り――動きを止めた。
男の足で二十歩程だろうか。不意に、背後からの気配に気付いたのだ。
反射的に腰の刀に手を伸ばす。立場を自覚すれば、暗殺を危惧するのは当然だった。
振り向き様に斬って捨てなかったのは、違和感を覚えたせいだ。まるで殺気が感じられない。足音すら聞こえる。標的を前にした刺客にしては、不用意すぎた。
怪訝に眉をひそめ、警戒を解かぬままに振り返る。
立っていたのは、小柄な少女だった。
はんなりと刻まれた微笑みに、男は絶句する。
透き通るような白い肌と、わずかに色付いた頬。白桃色の唇は肉感を帯び、睫毛は頬にまで影を落としている。
大きな瞳は琥珀色、柔らかそうな髪は茶色がかっていて、この邑には珍しい色彩だった。
しかし、男の目に少女が鮮やかだったのは、色彩のせいばかりではない。彼女が浮かべた微笑に、辺りの花々さえ霞ませるほどの威力を感じた。
面立ちのあどけなさが示す幼さも気にならなかった。その美貌と、柔らかな空気が男を惹きつける。
――自分は彼女と出会うために生まれてきたのだ。
それは、確信すらはらんだ予感だった。